■節子への挽歌1393:極楽浄土
節子
平泉の中尊寺が世界遺産になりました。
今日は、朝から何回も中尊寺の映像を見ました。
今日放映された「世界遺産」も中尊寺でした。
節子と一緒に歩いた道も出てきました。
中尊寺に節子と行ったのは、節子が病気になってからです。
節子がちょっと元気になった2年間、私たちはさまざまなところに行きましたが、行き場所を選んだのはいつも節子でした。
実は、そうして節子と一緒に行った旅の記憶は、今の私の記憶にはあまり残ってはいないのです。
節子は、いつも旅が終わると、また一つ一緒の思い出ができたねと笑っていましたが、なぜか私にはあまり残っていないのです。
今となっては、本当に節子と一緒に行ったのだろうかと思うことさえあります。
金色堂さえも一緒に入った記憶がありません。
なぜでしょうか。
もちろん行ったことは間違いなく、写真も多分残っているでしょう。
平泉は藤原三代が創りあげた東北の極楽浄土です。
私が最初に行ったのは、中学校の修学旅行でした。
その時の金色堂の印象がとても強く、それが私がお寺に興味を持った始まりでした。
高校の修学旅行は関西でしたが、初日に行ったのが宇治の平等院でした。
ここも浄土を思わせるところでした。
私にとっての3番目の極楽浄土は京都大原の三千院です。
最初に行った当時は阿弥陀堂にも自由に入れました。
舟形の天井の堂内に入った時に、瞬間的にこれはタイムマシンだと思いました。
阿弥陀の両脇の観音と勢至の中腰の姿勢は、まさにマシンが動いているのを感じさせました。
三千院は浄土ではなく、その入り口だったのだと思いました。
私のお気に入りの場所になり、その後、節子とも何回か行きました。
しかし、行くたびに建物は整備され、タイムマシン的要素はなくなり、退屈な空間になりました。
観音も勢至もやる気を感じられなくなりました。
最後に節子と行ったのは、節子が病気になってからのことですが、ただの寺院にしか感じられませんでした。
節子が突然、平泉に行きたいと言い出しました。
安いツアーがあるというのです。
節子と一緒に行った、最後の浄土です。
中学時代以来の平泉でしたが、私にはやはり退屈な感じがしました。
日本の寺院は年とともに退屈な空間になり、仏たちもなんだか寂しげになってきているような気がします。
奥州藤原氏も藤原道真も極楽浄土に憧れたようですが、私も、そしてたぶん節子も、極楽浄土への憧れはまったくありませんでした。
その理由は、節子がいなくなってからわかりました。
そして、私たちの浄土は終わったのです。
中尊寺への憧れもなくなりました。
もう二度と行くことはないでしょう。
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