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2011/06/16

■節子への挽歌1383:なんとまあ「贅沢なこと」

節子
たぶん節子は合ったことがないと思いますが、Aさんがやってきました。
家を出ようと思います、と言うのです。
前からお話は聞いていましたが、彼はもう50代です。
8年ほど前に、ある人の紹介で、私を訪ねてきてくれ、それ以来のお付き合いです。
彼が言うのは、たぶん私と佐藤さんの考えが似ているので、その人が私を紹介したというのです。
似ているでしょうか。
似ているところはもちろんあるでしょう。
しかし似ているんだったら、夫婦別居などするはずがありません。

なぜみんなもっと伴侶との関係を大切にしないのか。
そう思うことがよくあります。
あまりに身近すぎて、そのありがたさ、一緒にいることの幸せが見えないのでしょうか。

夫婦の形はさまざまです。
ですから、私の考えは間違っているかもしれません。
夫婦別居が一番にお互いを支え合ったり、慈しみ合ったりできるのかもしれませんし、長い夫婦生活の一つの過程として、そういうスタイルもあるのかもしれません。
夫婦喧嘩は犬も食わないというように、夫婦の事は他者が詮索すべきことではないのかもしれません。
しかし、伴侶がいなくなってしまった立場から言えば、なんとまあ「贅沢なこと」かと思うのです。

お互いに心を開き合っていない夫婦もいます。
お互いに相手を思うあまり、そうなっていることもあるように思います。
しかし、心遣いが過ぎることは、私の体験では必ずしも良いことではありません。

私たちは、お互いにストレートでした。
だから喧嘩も絶えませんでしたが、隠し事や遠慮はまったくありませんでした。
お互いに隠せるほど賢くも器用でもなかったからかもしれませんが、私たちは何事も2人で相談しながら共同生活をスタートさせたおかげだろうと思います。
6畳一間に近い生活からのスタートでした。
節電どころか、暖房器具さえ買えずに、テレビもなく家具もなく、私が理想としていた神田川のスタイルだったのです。
節子がそれに満足していたかどうかはわかりませんが、今から思うと、そうした生活(数か月で終わってしまいましたが)の時が、私たちがもっとも幸せな時期だったように思います。
当時の節子は、まぶしいほどに輝いていましたから。
そうした時期があればこそ、私たちは心を完全に開き合えたのかもしれません。

湯島には、いろんな人が来ます。
お話を聴いていて、いろいろと感ずることが多いのです。
節子を思い出すことも、少なくありません。

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