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2011/06/25

■節子への挽歌1392:「人生を人為的につくり替えるという常軌を逸した傲慢さ」

節子
今日は涼しい1日でした。
太平洋側の高気圧と大陸の低気圧が競り合っているなかに、台風がやってきたので、暑さと涼しさが入れ替わってしまいました。
自然の力の大きさにはいつも驚かされます。
「世界を人工的につくり替えるという常軌を逸した傲慢さは、経済成長優先社会におけるわれわれの人間の条件の否定を現出させている」とフランスの経済学者セルジュ・ラトゥーシュは「脱成長の道」の中で書いていますが、全く同感です。
そろそろ経済成長神話から、私たちは抜け出なければいけません。
しかし一度つくりあげられた「常識」からは、なかなか抜け出られないのも人間です。
その「常識」の中にいることが、「生きやすさ」を生み出してくれるからです。

と、ここまでは、実は今日の時評編(「世界を人工的につくり替えるという常軌を逸した傲慢さ」)の文章と同じです。
今日は同じ書き出しで時評と挽歌がどう変わるかを遊んでみました。

自然の力の前には、人は成す術もなく、ただそれに合わせるしかありません。
自然を支配し、管理することができると思うのは、ラトゥーシュが言うように、傲慢さ以外のなにものでもありません。
しかし、人が抗えないものはほかにもあります。
それは、自らのなかにある「思い」です。
「愛」と言ってもいいかもしれません。

節子への思いや愛は、いまも熱く私の心身に宿っています。
いかに思っても、いかに愛したくても、もうその対象はこの世には存在しない。
対象の存在しない思いや愛は、存在するのか。
そんな気もしますが、しかし、その思い、その愛は、断ちがたく、私を呪縛しつづけます。
存在しないものを愛しつづけることの辛さと哀しさは、当事者だけのものです。
それを捨ててもだれの迷惑にもなりません。
もし捨てられれば、どれほど楽になることか。
そして新しい世界が見えてくるかもしれません。
そう考えることもできるでしょう。
しかし、その思いや愛を捨てることは、これまでの自分のすべてを捨てることであり、生き直すことにほかなりません。
それには、どれほどのエネルギーを必要とすることか。
生き直すエネルギーは、少なくとも今の私にはありません。
しかし、実は、そう思うことは、経済成長神話に従って生きるのと同じことではないのか。
ラトゥーシェの言葉に出会った時に、ふとそう思ったのです。
生き方を変えることができるのであれば、生き直すこともできるのではないか、と。

しかし、ラトゥーシュの言葉を何回も何回も読み直しているうちに、言葉の真意が見えてきました。
ラトゥーシュは、こう言っているのです。
「人生を人為的につくり替えるという常軌を逸した傲慢さ」を捨てよ、と。

私たちの、あるいは私の人生は、こう定まっていたのです。
それに素直に従えばいい。
断ちがたい思いや愛は捨てることもなく、無理に生き直すこともない。
ラインホールド・ニーバーが祈ったように、
変えることのできるものと変えることのできないものとを見分ける知恵が大切なのです。

何だか小難しい挽歌になってしまいましたが、節子との毎日の会話(挽歌)は、私の生き方を問い直す時間でもあるのです。
節子は今もなお、私の生きる指針です。

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