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2011/07/05

■節電への違和感

節電キャンペーンが、どうしても腑に落ちません。
節電に反対というわけではありません。
節電のキャンペーンの仕方に違和感があるのです。
それに「節電」とは「浪費」を前提にした発想のように思えて、私にはなじめないのです。
根本を直さない改善策は、長期的には問題の先送りでしかないからです。
政治権力者はそれでもいいいでしょうが、実際に生活している立場からは先送りは有害であっても益はないからです。
それに、私の電気の使い方は、無駄がないとは言いませんが、節電するほどの無駄はありません。

ところで、節電するということは東電の売上を減らすということにつながります。
私が腑に落ちないのはそのことです。
節電で東電の収益は低下します。
それが原発事故被災者への支援活動の妨げにならないのか、と思います。
電気料金と電力使用量の関係がどうなっているのかわかりませんが、ある相関関係があるはずです。
その相関係数を基準にして、消費量が目標分だけ減少するように、電気料金を高くするのがいいと、私は思います。
そうすれば東電の収益は減りません。
むしろ収益率は高まるはずですから、増えるかもしれません。
増えた分は被災者支援にまわせます。

節電とは別に、メーカーの土日創業の動きのような、消費量の平準化の動きはどうでしょうか。
これにも違和感があります。
たしかに消費ピークを低くする効果はあるでしょうが、全体の電力消費量は増えるだろうと思います。
神が日曜日に安息日をつくったのには深い意味があるように思いますが、それがくずれるのもなじめません。
しかし、平準化は電力会社にとっては大きなメリットのはずです。
電力は貯蔵できませんから、平準化されれば間違いなくコストダウンと売上アップになります。
しかし、繰り返しますが、社会全体にとっては電力消費量は間違いなく増加します。
つまり節電ではなく電力消費を増やすということです。

そうした2つのことが同一次元で語られています。
電気予報なども含めて、私たちはますます電気漬けに向かっています。

事故を起こした東電の商品は、すべての人の生活を支えるものであり、すべての産業の事業活動を支えるものです。
そこに問題の特殊性があります。
しかし、そこにこそ、問題解決の鍵があるだろうと思います。
発想を変えれば、その活動の、もう一つの意図が見えてきます。

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