■八百長相撲事件で相撲界から去っていった若者たちが気になります
大相撲名古屋場所はテレビで見る限り、空席が目立ちます。
私もあまり見ないのですが、見ていていつも思うのは、八百長相撲事件で相撲界から去っていかざるを得なかった若者たちのことです。
一時は訴訟を起こすといっていた人もいましたが、その後、全く話題にならなくなりました。
お金で口を封じられたとは思いたくありませんが、マスコミも報道しなくなりました。
相撲界を辞めて他の世界にうまく移れればいいですが、あまりに特殊な世界ですから、そう簡単ではないでしょう。
彼らの未来がとても気になります。
その一方で、役員関係者みんな安泰でした。
放駒理事長も含めて何の責任も感じないのか、不思議です。
特殊な人が起こした事件ではなく、相撲界の文化が起こしたことだという気がしますが、それにもかかわらず責任ある立場の人が引き続きトップにいることには大きな違和感があります。
要するに彼らもまた「八百長文化」の住人なのであろうとしか思えません。
そうしたことが空席の目立ちになっているのかもしれませんが、しかし相撲ファンは辞めさせられた力士たちになんの思いも感じなかったのでしょうか。
相撲ファンでない私としては、理解できない話です。
しかし、北朝鮮拉致事件でさえあれほどの盛り上がりを見せたにも関わらず今や忘れられてしまったように、八百長相撲事件で犠牲になった若者たちもまた、忘れられていくのでしょう。
そういう社会の一員であることが、情けなく恥ずかしい気がします。
日本の社会は、こうした若者たちの犠牲の上に立っているのでしょう。
それにしても、最近の組織のトップは、どうしてこうも自らの保身だけしか考えないのでしょうか。
たぶん「なるべきでない人」が最近はトップになるからでしょう。
そうした状況をつくりだしているのはいったいだれなのか。
もしかしたら、それこそが「民主主義」の宿命かもしれません。
「民」って、何なのだろうか、といつも考えます。
少なくとも、私は「民」にはなりたくありません。
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