■節子への挽歌1417:「生きていくことを共にする社会」
節子
人間には2つの欲求があるといわれます。
存在欲求と所有欲求です。
存在欲求は「何かと共にあること(being)」によって充足され、所有欲求は「何かを所有する(having)」ことによって充足されます。
所有欲求が充足されると「豊か」になり、存在欲求が充足されると「幸せ」になります。
豊かになったからといって、幸せになるとは限りません。
これに関しては、「幸福のパラドクス」という研究もあります。
私はどちらかといえば、所有欲求よりも存在欲求が強いように思います。
衣食住という言葉がありますが、私にとって意味があるのは「住」だけです。
衣食への欲望は少なく、食はお味噌汁とお漬物があれば満足でした。
衣服ももう少し良いものを買ってよと節子にまでいわれましたが、着られればいいのです。
最近、(見るに見かねたのか)友人が仕立券付きのシャツ生地をくれましたが、仕立てに行くつもりはなく、有効期限が切れてしまいました。
ユニクロの1000円のシャツで満足なのです。
しかし、住む場所にはこだわりがありました。
それを知ってくれた節子は、節約を重ねて、私に快適な住まいを遺していってくれました。
節子がいなくなっても、私が何とか元気だったのは、この住まいのおかげです。
「住まい」は所有欲求というよりも、存在欲求に関わっています。
しかし、せっかくの住まいも節子がいなければ充足感は得られません。
高台なので、キッチンから手賀沼が少し見えます。
毎朝、そこで珈琲を淹れながら外を見るたびに、節子にもっともっとこの景色を見せたかったと思います。
ですから、折角の景色を見ながらも、幸せ感は生まれてきません。
住まいにとって大切なのは、そこで共に暮らす家族です。
そういえば節子はよく言っていました。
住まいで大切なのは「良き隣人」だと。
幸いに節子が残してくれたわが家は、良き隣人にも恵まれています。
これも節子のおかげです。
神野直彦さんは、「生きていくことを共にする社会」に変えてかなければいけないと言っています。
とても共感できます。
私が目指していることでもあります。
人の喜びは、「共に生きる」ことなのです。
しかし多くの人はそれに気づいていないのか、「共に生きる」ことへの関心が低いように思います。
「つながり」とか「支え合い」とかいう言葉はあふれてきましたが、実態はあまり変わっていないような気もします。
「共に生きる」喜びを教えてくれた節子には感謝しなければいけませんが、それを終わらせた節子には苦情を言いたい気もします。
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