■節子への挽歌1407:言葉と真実
言葉には真実がなければいけません。
それは、私たち夫婦のいくつかの基本合意のひとつでした。
節子は、私以上に「真実のない言葉」を使う人、つまり、言葉だけの人が嫌いでした。
私も、そうでした。
私たちにとって、最大のタブーは「嘘をつく」ことでした。
発話した言葉は守らなければいけません。
言葉はすべて守らなければいけないとなったら、生きていくのはかなり窮屈になります。
京都の人が、その気もないのに、「食事でもしていきませんか」というという話は有名ですが、その類の言葉は、いろんな人と付き合っていくためには不可欠なのかもしれません。
時にお世辞を使うことも、時にはうれしくなくてもうれしそうにすることも、お互いに気持ちよく過ごすためには必要な知恵かもしれません。
しかし、私たちは、2人ともそれが不得手でした。
私たちは、自分がそうでしたから、誰かが言った言葉は心底信じました。
その結果、時に裏切られるのですが、それは言うまでもなく私たちの問題です。
相手の人に、悪意があるわけではなく、騙そうなどとも思っていないのです。
私たちにとっての「言葉」と世間一般に流行している「言葉」とは違っていました。
時評編で書きましたが、「サバルタンは語ることができるか」という本を書いたガヤトリ・スピヴァクがブルガリアで講演した記録を読みました。
難解でよく理解できませんでしたが、それを読んでいて、気づいたことがあります。
詳しくは時評編「サバルタンは自らを語ることができない」を読んでもらうとして、挽歌編風に言えば、言葉が必要な世界と不要な世界があるということです。
そして、言葉が必要な世界の言葉には真実がなく、言葉が不要な世界では言葉の前に真実がある。
しかも、そのふたつの世界はつながっていて、ほとんどの人は、そのいずれかだけでは生きていけないということです。
心を完全に開き合った、あるいは運命を同じくしている者同志の間には、言葉は必須のものではありません。
言葉があろうとなかろうと、そこには「真実」があるからです。
私たちはたくさんの言葉を交わしていましたが、その言葉は私たち以外の人との間で交わされた言葉とは違う種類のものだったのです。
しかし、その違いに私は気づいていませんでした。
最近、どうも自分の居場所がわからなくなってきています。
その理由が何となくわかった気がします。
言葉は世界における自らの居場所を定位してくれるものです。
ところが、私は言葉が不要な世界での言葉遣いになれてしまったが故に、いつも言語が過剰になってしまい、自らを定位できずにいるのです。
言葉に真実がなかったのは、実は私のほうだったのです。
友人から、コミュニケーション能力不足を指摘された意味が、最近少しわかりだした気がします。
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