■節子への挽歌1414:辛い経験をすればこそ心が平安になる
節子
昨日は、自殺のない社会づくりネットワークの交流会でした。
東尋坊で自殺防止活動をしている茂さんも久しぶりに参加してくれました。
このネットワークは、節子と一緒に東尋坊に行ったことが発足の一つの契機になったことから、茂さんと会うといつもあの日のことを思い出します。
夕陽のきれいな日でした。
茂さんの東尋坊での活動はテレビでもよくとりあげられます。
しかし残念ながら、茂さんの真意がなかなか表現されていないような気がします。
茂さんの思いは、もっと深くもっと誠実です。
それにビジョンもあるのです。
この2年、茂さんと付き合ってそれがよくわかります。
その茂さんは、東尋坊の見回りだけでなく、福井駅の前に「喫茶去」という名前の相談所を開設したのです。
自殺に関連した相談所は、実は全国にたくさんあります。
しかし茂さんはそれに不満を持っています。
相談に乗るだけでなく、当事者と一緒になっての包括的な解決姿勢が必要だというのが茂さんの考えです。
いいかえれば、相談に来た人を心身ともにすべて引き受ける覚悟がなければいけないのです。
しかし、当事者は千差万別、みんな違います。
その違いをしっかりと認識することがなかなか難しい。
そんな話がいろいろと交わされました。
私も当事者視点という言葉を時々使います。
しかし、この「当事者」という言葉が曲者なのです。
たとえば伴侶を失った者同士でも、実はさまざまです。
ついつい同じだと思ってしまいがちですが、当然それぞれに違うのです。
にもかかわらず、「伴侶に先立たれた人」として一派ひとくくりに扱われることほど不快なことはありません。
では「当事者意識」とはなんなのか。
一人ひとり違うのであれば、当事者の視点に立ってなどという言葉は無意味ではないのか。そこで気がついたのですが、実は「当事者意識」というのは、「人はそれぞれに違うという意識」なのではないかと思います。
それに気づけば、さらにその向こうにある「人はみんな同じという意識」に辿りつきます。
そしてだれにもやさしくなれるのです。
生きていることが辛くなるような体験をした人は、そういう意識に辿りつきやすくなります。
そこに辿りついた人は、どんな相談にも応じられるかもしれません。
いやそれ以前に、自らが平安になれるのではないか。
辛い経験をすればこそ、心が平安になる。
茂さんのことを書こうと書き出したのに、思ってもいなかった内容になりました。
私にとって、挽歌を書く時間は節子と会話しながらの哲学の時間なのです。
推敲せずに、思いつくまま書きなぐっているので、支離滅裂ですみません。
私の中では、それなりにまとまってはいるのですが。
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