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2011/07/31

■節子への挽歌1427:友が去る淋しさの感覚がありません

九州の藏田さんからうなぎが送られてきました。
藏田さんは「布施の人」です。
いろんなものを、理由をつけては送ってくれるのです。
節子の献花にもわが家まで来てくれました。
「仕事」で少しお付き合いがあっただけなのですが、そして私のほうがいろいろとお世話になったばかりか、逆に迷惑さえかけたはずなのですが、布施の人である藏田さんは、そんなことなど忘れたように、私を元気づけてくれるのです。

今回は、手書きではなく、パソコンでつくった手紙が入っていました。
藏田さんはとても達筆なので、いつもは手書きなのに、と思って読んでいたら、最後に衝撃的な文章が書かれていました。

会社時代、一緒に仕事したY君が今年の4月20日に亡くなりました。
新盆は7月15日で両日とも日帰りで会いに行ってきました。
友が去るのは淋しい限りです。

Yさんは私もよく知っている人です。
将来を嘱望されていたにも関わらず、数年前に体調を崩されて会社を休んでいるとは聞いていましたが、まさかそこまでとは思っていませんでした。
一瞬、衝撃を感じました。
私よりもずっと若いはずです。

私への心遣いから、葬儀も新盆も私に連絡することなく日帰りされたのでしょうか。
藏田さんは、そういう人なのです。

自分ではなかなか老いを意識することは難しいものです。
私はすでに古希ですが、意識の上でも生き方においても、まだ学生の頃とそう変わりません。
おかしな話ですが、中高年の人を見ると、みんな自分よりも年上の人だと勘違いしかねないほどなのです。
実に困ったことなのですが、私もまた、藏田さんのように、友が去る淋しさを味わうことが増えていくのかもしれません。

しかし、愛する伴侶を失う体験をしてしまうと、死というものへの意識はかなり変わります。
私だけのことかもしれませんが、実は訃報を聞いてもそう動ずることがないのです。
薄情と言われそうですが、衝撃的ではあるのですが、不思議と悲しさとか淋しさが生まれてこないのです。
今日、藏田さんの手紙を読んで、改めてそのことに気づきました、

私自身が、彼岸に近づいているからなのかもしれません。
とはいうものの、もう一度Yさんには会いたかったです。
今はただ冥福を祈るのみです。

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