■サバルタンは自らを語ることができない
「サバルタンは語ることができるか」という本を書いたガヤトリ・スピヴァクがブルガリアで講演した記録を読みました。
「ナショナリズと想像力」(青土社)です。
書名に惹かれて読んだのですが、難解でよく理解できません。
時をおいて、再読するつもりですが、読んでいて気づいたことがあります。
サバルタンとは下層民、従属民というような意味だそうですが、サバルタンは「自らを語ることができない」とスピヴァクは言うのです。
たとえばインドの女性たちは寡黙ですが、それは何を語っても外部に伝わらないからだと言うのです。
女性を解放するためには、先ず女性たちの言語と文法を育てなければいけません。
識字教育に取り組んだ「被抑圧者の教育学」のパウロ・フレイレも、言語が世界を創りだすと考えています。
言語は人の意識を変える最高の手段です。
方言を標準語に統一することで、日本人という概念が生まれたのかもしれません。
ところで、スピヴァクを読んで気づいたことですが、
もしかしたら東北の被災地の人たちもまた、自らを語ることができないでいるのではないかと言うことです。
あるいは、標準語もしくは「近代語」でコミュニケーションしなければいけない状況の中で、実は、その思いを具現化できずにいるのではないかと思ったのです。
こういう言い方をすると、被災者はサバルタンかと言われそうですが、私の認識は反対なのです。
世界に通用する「近代語」こそが、実はいまや「自らを語る言語」ではなくなってしまったのではないかということなのです。
とすると、東北復興のシナリオには、新しい未来は描けないおそれが強いです。
明らかに、主軸は他動詞の復興になるだろうからです。
フレイレは、抑圧者こそが実は被抑圧者だということを示していますが、スピヴァクもまた世界を支配していると思われている者たちこそ、実は言語を失ったサバルタンなのだといっているのではないか。
もしそうであれば、発想を変えなければ、新しい未来は開けてきません。
どの言語と文法でシナリを描くかは、歴史を分ける大きな問題です。
スピヴァク、フレイレ、東北復興。
この3つをつなげると、新しい未来が垣間見える気がします。
同時に、私自身の生き方に関しても、納得できることがありました。
これは挽歌編に書きます。
東北の未来は変えられなくとも、私の人生は変えられます。
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