■節子への挽歌1403:デラシネケア
節子
昨日、韓国にお住まいの佐々木さんが来てくれました。
最近どうも気力が出てこないとお話したら、佐々木さんは節子のケアがなくなったからではないかというのです(ケアという言葉は使いませんでしたが、まあそんな意味だと受け止めました)。
佐々木さんからは、前にも同じようなことを言われていたのですが、そうかもしれないと今回は思いました。
最近の気の疲れは、ちょっと深いのです。
昨日は佐々木さん以外にも3人の人が湯島に来ました。
みんなそれぞれの人生にいろいろと問題を抱えているようで、名目は違えこそすれ、その人生を語ってくれます。
しかもそのうちの2人は、カウンセラーを仕事の一部にもしている人です。
ケアする人のケアということがよく言われますが、カウンセラーにもカウンセラーは必要なのでしょうか。
ケアリングに関していつか書いたことがありますが、ケアされる必要があるケアの仕方は私のケア概念とは違います。
私が考えるケアは関係性、しかも創造的な関係性です。
私は誰かのために誰かをケアすることは先ずありません。
ケアは誰か(自分も含めて)のためにあるのではなく、ケアそのもののためにあるように思います。
さらにいえば、生きるとはケアすることなのだとも思います。
そのことを実感させてくれたのが、節子との関係性でした。
誰かのためのケアではないのであれば、節子がいなくなっても何の変化も起きないはずです。
しかし実際には、節子がいなくなってから、「ケアすること」への気はかなり萎えています。
その理由が、佐々木さんの言葉でわかりました。
私のケアの世界が根っこのないデラシネケアになってしまったのです。
根っこがなければ、栄養もこなければ成長もありません。
ケアはある意味で生きる力の源ですが、自分だけではなかなか育てられない。
独善的な施しの世界になったら、いつか限界が来るでしょう。
とまあ、実は昨日、ここまで書いたのですが、先が書けなくなりました。
なんだか大きな発見につながるような気がしているのですが、うまく書けません。
アップしようかどうか迷いますが、まあ思いつきのメモとして、アップすることにしました。
思いついたイメージは、「親子」や「夫婦」というのはケアの文化を育てる仕組みなのではないかと言うことです。
そのケアの原型が失われているということは、新しいケアの世界がはじまるということなのかもしれません。
挽歌にしては、いささか小難しい内容になってしまいました。
まあ、たまにはいいでしょう。
節子は、そうした私の語り口には慣れていますので。
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