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2011/07/05

■節子への挽歌1402:「節子だったら怒るだろうな」

節子
最近、「節子だったら怒るだろうな」という言葉が、わが家ではよく聞かれます。
私もそうですが、娘たちもよく使います。

たとえば、昨日、松本復興担当相が宮城県知事と会見した風景をテレビでみていたら、ユカがお母さんなら「この人嫌い」と怒るだろうなと言いました。
言葉づかいの粗雑な人が、節子は嫌いでした。

節子は、感覚的に物事を評価する人でした。
そのため決してぶれる事はありませんでした。
小賢しい知識での評価はぶれることが多いですが、節子の評価は直感による事が多かったように思います。

人は、他者にどう接するかで、その本性が見えてきます。
私のように、中途半端な知識と先入観があるとそれが見えなくなることもありますが、節子はそんな知識と賢さはありませんでした。
会社を辞めて湯島にオフィスを開いてから、私のところにはいろんな人がやってきました。
私を訪ねてきたのですが、節子に接する態度で、私にも人の本性が見えてくることがありました。
会社の事務スタッフと思っていたのに、私の妻だと知った途端に言葉遣いまで変わる人もいました。
私もまた、節子を通して、人の哀しさやずるさを、さんざん思い知らされました。
いつかも書きましたが、節子のおかげで、私は4つの目で人を見ることができていたのです。
それは今も変わりません。
節子ならどうするかは、いまもなお私の判断基準の半分をしめています。
節子の、人を見る目は「確かなもの」でした。

その「節子の目」から見ても、怒りたくなることが最近は多すぎます。
そのせいか、最近は私はとても不機嫌なのです。
それでまあ、思い出して「ガリヴァー旅行記」を読み出したりしています。
ガリヴァーを書いたスウィフトも、時代に怒りながら、不機嫌な人生を送ったと記憶していたからです。
今日、読み終えました。
スウィフトと私は、その不機嫌さの内容が全く違うようです。
スウィフトには「節子」がいなかったのです。
今日はまた、節子にちょっとだけ感謝の念が高まりました。

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