■ツイッターの恐ろしさ
なでしこジャパンの熊谷選手が参加した合コンに同席した男性が、ツイッターで熊谷選手の発言を「実況」投稿したことが騒ぎになっています。
監督批判の内容があったためのようです。
熊谷選手の謝罪記者会見をテレビで見ました。
ツイッターは、ある意味で、相互監視ツールになるということです。
まさにオーウェルが予告した監視社会そのものです。
そういえば私もある人と連絡を取りたかった時、彼が発信したツイッターのおかげで、その所在がわかり連絡が取れたことがあります。
その時は、その効用に驚いていたのですが、その効用の裏側にはこうした-側面もあるわけです。
もはや「オフレコ」などという文化は過去のものになったのでしょうね。
ツイッターをやっている人は世界を相手にした情報発信者になれるわけですが、そうした人が増えていくと、社会のあらゆる場所が観客が見ている舞台と言うことになります。
舞台では人は演技をします。
社会はすべて演技する舞台となり、人が生きるということは「演ずる」と同義になりかねません。
考えてみると、これは恐ろしいことです。
オーウェルの小説を読んだのは高校生の時ですが、日常的にだれかに監視されている社会、あるいは互いに監視し合う社会は、子どもながらに強い嫌悪感を持ちました。
まさかそんな社会は到来するまいとおもっていましたが、20年ほど前から急速に監視社会化が進み、最近では多くの人はそうした動きにあまり恐ろしさを感じていないようです。
むしろ監視カメラが街中に増えていることで、安心感を強めている人のほうが多いかもしれません。
私自身、最近少し感覚的に麻痺している気がします。
ベンサムのパノプティコンの話にも、どこか他人事で受け止めているところがありました。
しかし、今回の事件を知って、ハッとしました。
このまま行くと、私たちはみんな「ゾンビ」になってしまうのではないかという気さえします。
まあ既に多くの人は、そうなっているのかもしれません。
だから最近私はとても生きにくいのです(本音ですが暴言ですね)。
昨日、東電OL殺害事件に「冤罪」の可能性が出てきた報道がなされていましたが、監視社会の恐さは、冤罪が
生まれやすい社会ともいえるでしょう。
監視側に立つと、人は往々にして裁く意識が生まれてきます。
裁く意識に立つということは、裁かれる対象とは目線を変えるということです。
裁かれたことのない人には裁くことはできるはずもありません。
その証拠はいくつもあります。
自らが裁かれる立場になった裁判官が、生き方を一変させた事例もありますし、最近では村木さんの発言が二重の意味で示唆に富んでいます。
他者が「その人の言葉」で勝手に自分の発言を実況報告することへの防衛策はありません。
みんなから関心を持たれている人は、次第に本音での発言はしなくなっていきかねません。
「コミュニケーションツール」の発達が、コミュニケーション阻害を起こすというジレンマがここにあります。
監視社会にしていくためには、法律など不要なことがわかります。
恐ろしい時代の幕開けです。
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コメント
繁華街の監視カメラとツイッターは、似て非なるものだと思います。
監視カメラは、「事実」を記録するものだけど、、ツイッターで示される情報は、不特定多数の人に伝える事が目的であるため、誇張された表現や、情報の捏造も行われています。
ツイッターでは、故意に「冤罪」を生み出す事ができるということです。
もうすぐ冤罪社会がやってくるのかな...
投稿: 少年X | 2011/07/23 12:55