■節子への挽歌1418:インセプション
昨年話題になった映画「インセプション」を観ました。
昨夜、娘がお父さん向きの映画だからとDVDを勧めてくれたのです。
長い映画でしたが、ついつい観てしまいました。
そんなわけで、昨日は挽歌も時評も書けませんでした。
インセプションは節子向きの映画ではありませんが、たしかに私向きでした。
ストーリーは、人の夢の中に入り込んで、その人のアイデアを盗み取ったり、逆に考えを埋め込んだりするという話です。
監督のクリストファー・ノーランは、アルゼンチン出身の作家ボルヘスの「伝奇集」から着想を得たそうですが、見終わった後、それを知って奇妙に納得できました。
昔、大のボルヘス好きの先輩からボルヘスの話を何回も聞かされていたのを思い出しました。
映画のストーリーはあまり緻密ではなく、まあそれほどの新鮮味もありません。
しかし、夢の中の夢といった夢の「階層」と、その一番奥に、主人公と妻とが一緒につくりあげた「夢の世界」があるという構想がとても納得できました。
これはバーティカルなパラレルワールドであり、愛する者を失った者が探しにいくことのできる世界構造なのです。
さらにそれに加えて、夢と現実の連続性と現実の相対化が示唆されています。
現実世界では独占できない伴侶を独占するがために、妻は現実の世界から夢の世界に移っていくのですが、夫である主人公は子どもとの関係性を断ち切れないのです。
映画を観ていないとわかりにくいと思いますが、私には彼らの葛藤と迷いがよくわかります。
夢の世界は、階層ごとに時間の進み方が違います。
これは浦島太郎の話とは逆で、夢の世界のほうが時間は長いのです。
彼らはかなり深い階層の夢の世界で50年を二人だけで過ごしたのですが、おそらく現実社会では数日の話だったのでしょう。
私がうらやましいと思ったのは、2人だけの世界で50年を過ごしたということです。
これは私が節子に話していたことでもあるのです。
50年を2人だけで過ごすことは現実的ではありません。
しかし、愛するということは時間を超えるということだと思っていますので、たぶん私には可能なはずです。
節子が耐えられたかどうかは、私にもわかりませんが、退屈させない自信は私にはありました。
歳をとらずに50年をただただひたすら2人だけで過ごす。
こういう世界を考えた人がいたことを知って、私はとてもうれしかったのです。
論理もつながりも粗雑な映画だと思いますが、私には奇妙にリアルでした。
最後は、主人公は妻ではなく現実の世界を選びますが、これは私にはありえない話です。
せっかく現実の相対化を描きながら、結論は極めて退屈な凡作ですが、しかし私には、しばらく忘れていた世界を思い出させてくれました。
久しぶりに、ボルヘスも読もうかと思います。
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