■節子への挽歌1408:体験すべき思い出はすべて体験してきたのかもしれない
節子
昨夜はチビ太に付き合って、明け方まで仮眠状態でした。
この数日、こういうことが続いています。
4年前の節子とのことも思い出されます。
チビ太はもう高齢ですので、最近は散歩も節子と同じように、ゆっくりとゆっくりと歩いています。
チビ太との暑い夏が、どうしても節子との暑い夏に重なってしまいます。
暑い上に、こうした状況で寝不足が続いています、
さすがに今朝は眠さに勝てず、5時半頃にチビ太が眠りだしたので、私も眠ってしまいました。
そして、夢を見ました。
久しぶりに、夢の中で泣いてしまいました。
最近、涙を出すことは、夢でも現実でも少なくなりました。
悲しさやさびしさが弱まったわけではありません。
むしろ深まればこそ、涙を流さずともいいようになったのかもしれません。
夢には節子は出てきませんでしたが、節子のことを話している私が出てきました。
たくさんのペーパーが散らかっていました。
そこにはなにやらキーワードや記号や絵が書かれていました。
節子がいたら、これをまとめてくれるはずだった、と話している私がいました。
話しているうちに、なぜか夢の中の私は声をつまらせてしまい、そこで目が覚めました。
ただそれだけの夢なのですが、いつものように、とてもあたたかな気持ちが残っていました。
夢に出てくる節子は、多くの場合、「雰囲気」です。
節子の笑顔はなく、節子の笑顔の雰囲気だけが感じられます。
節子は、私のなかではもう実体のない霊魂になっているのかもしれません。
時に節子を抱きしめる夢も見ますが、その時の節子も、身体のない雰囲気だけなのです。
今朝の夢に出てきたペーパーは、多分、私たちの思い出の記録でしょう。
今日の青い空を見ていて思い出すのは千畳敷カールを一緒に歩いた日のことです。
晴れた日には晴れた日の、雨の日には雨の日の、楽しい日には楽しい日の、辛い日には辛い日の、それぞれの私たちの思い出があります。
思っていたよりも早く終わってしまいましたが、体験すべき思い出はすべて体験してきたのかもしれません。
ですから、それを思い出せばいいだけなのかもしれません。
しかし、涙は何だったのでしょうか。
悲しいから涙が出たのではないかもしれません。
涙が出た後には、必ずと言っていいほど、あたたかな気持ちが私を包むのです。
夢のおかげで、今日はまだ眠いですが、元気に出かけられそうです。
| 固定リンク
「妻への挽歌08」カテゴリの記事
- ■第1回リンカーンクラブ研究会報告(2021.09.06)
- ■節子への挽歌1600:「節子がいる私」と「節子のいない私」(2012.01.20)
- ■節子への挽歌1599:苦労こそが人を幸せにする(2012.01.18)
- ■節子への挽歌1598:青空(2012.01.17)
- ■節子への挽歌1597:家族と夫婦(2012.01.16)
コメント