■節子への挽歌1423:そうだ、お寺に行こう
節子
3.11以来、心の癒しになるような本が売れているそうです。
また「ブッダ」そのものもブームになっているといいます。
友人が、そうした記事や情報をまた届けてくれました。
しかし、スリランカ出身の僧侶、スマナサーラ長老も、ドイツ哲学専攻の異色の僧侶、小池龍之介さんにも、どうも違和感があります。
小池龍之介さんの著作はまだ読んでいないので、一度読もうとは思っていますが。
多くの人が、今の日本仏教は葬式仏教だと言います。
その言い方には、お寺への蔑視の気持ちを感じます。
葬式だけしかせずに、仏教の教えを広め実践していないというのです。
しかし、そうでしょうか。
私は大きな異論を持っています。
確かに「お金まみれ」のお寺も少なくないでしょうが、真面目なお寺も少なくありません。
それに「葬式仏教」で何が悪いかとも思います。
「葬式」は、単なる儀礼的なイベントではないはずです。
有名人の葬儀は、別かもしれませんが。
お寺という場にきちんと向き合えば、わかると思うのですが、本など読む必要はありません。
タレントのような僧侶の話など聴く必要もありません。
以前、節子と瀬戸内寂聴さんのお話を聴く機会がありました。
ビジネスマンを対象にした、ホテルでの講演会でした。
私は途中で退席したくなりました。
聴いた後の、私と節子の感想は全く同じでした。
「癒し」ではなく、寂聴さんの生き方の貧しさを感じました。
私は、「卑しさ」さえ感じました。
私が聴いた場が悪かったのかもしれませんが、節子もそう感じたのですから、私だけの責任ではないような気がします。
節子のお墓のあるお寺は小さなお寺です。
しかし、そこに行くと、何となく安堵します。
そのお寺に限りません。
どこのお寺でも、お堂に上がって、仏と対座して手を合わせると心やすまります。
癒しは、他者からもらうものではなく、自らのなかにあるのです。
ちなみに、私も仏教関係の書物は読みます。
難しい教理の本もあれば、今様の入門書もあります。
いずれの場合も、お寺の本尊に向き合うように読ませてもらいます。
本は、葬儀やお寺との付き合いとセットになっています。
そんな気がします。
そういえば、最近、お寺で仏様にゆっくりと対座したことがありません。
心が貧しくなっているのは、そのせいかもしれません。
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