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2011/07/01

■節子への挽歌1398:消えてしまった老後

節子
最近、ちょっと思うのですが、私には「老後」はないのかもしれません。
なぜそう思うかというと、昔の宣伝コピーではありませんが、「節子のいない老後なんて・・・」という気がするのです。

私も古希ですから、もう十分に老後にあるわけですが、なぜかその気分になりません。
頭ではわかっているのですが、老後の暮らしをどうしたらいいかわからないのです。
節子がいたら、とてもいい老後を暮らし始めているのだろうと思うのですが。

節子が元気だったら、どんなおばあさんになっていたでしょうか。
しかし、それもまた想像できません。
節子にも老後はなかったのです。

節子が逝ってしまった、あの日、私たちの老後は消えてしまいました。
あの時点で、私たちの時計は止まってしまった。
そのため、それ以来、私の時間感覚はリズムをくずしたままです。

人は、太陽や自然を見て、時を感じます。
時計が時を刻んでいるように思いがちですが、そうではないでしょう。
たしかに短い時間は、時計が教えてくれますが、生きるという意味での時間は、時計が刻む時とは無縁のように思います。
私は20代の頃から、腕時計をしたことがありません。
腕時計をすることが、私には「自分の生」を吸い取られるような感覚があったからです。
自然の中で、自分の時間を生きる、それが私の選んだ生き方です。
自分の時間と時計の時間の折り合いはなんとかつけてきましたが、年齢の意識はあまりありません。

太陽や自然に加えて、もう一つ、私には時間の基準があったように思います。
それが節子でした。
節子との関係性といってもいいかもしれません。
間違いなく私たちの関係性は変化しました。
私の感覚では「熟す」という感覚です。
「熟す」とは、まさに時の長さを実感化させるものです。
太陽よりも、自然よりも、それが私の生にリズムをつけるはずでした。

節子との関係性が刻む時間があったおかげで、私は自然だけの時間に流されることなく、自分の人生の時間を持てたように思います。
自然(の時間)は、個人の生には関心を持ちません。
個人の事情には無頓着に、押し付けてくるだけです。
そして、時がくれば、非情に心身を終わらせます。
そこにあるのは豊かな老後ではなく、フィジカルかつメンタルな不自由な老化だけでしょう。
一人になったいま、古希や長寿を祝う意味など、あろうはずもありません。
あるのは嘆きだけです。
愛する人が隣にいれば、熟した老後の関係性がある。

その「老後」がなくなってしまった以上、自然の時を受け容れなければいけません。
時計が刻む時も意識しなければいけないかもしれません。
私の中で、最近、生活のリズムがとれないのは、時の基準がくずれたからです。

老後のない人生を、どう受け容れるか。
いまさら腕時計は持ちたくないと思っています。

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