■節子への挽歌1404:悲しんだり怒ったりすることも幸せのうち
節子
若い頃に、インドのアシュラムで行をしてきた鈴木さんから時々いろんな情報が届きます。
今日届いたのは、スマナサーラ長老と小池龍之介さんの談話記事です。
「いま日本で最も著作が売れているお坊さんの2トップかもしれません」と書いてありました。
前にも、この2人の記事を、鈴木さんは送ってくれています。
鈴木さんは、私を元気づけようと思っているのです。
ところが残念ながら、私はこのお2人の発言があまりピンと来ないのです。
スマナサーラ長老に関しては、私の知人も応援しているのですが、私は大きな違和感を持っています。
これに関しては、以前かなり怒りを含んだことを、この挽歌でも書いています。
読み直してみるといささか恥ずかしいですが、まあその時はそう思ったのだから仕方ありません。
スマナサーラさんは、今回送ってもらった談話記事でも、「怒ることは極限の無知」とたしなめていますが、怒りのない人生は私とは無縁です。
今回、スマナサーラさんは「そもそも、なぜ、悲しみという感情が起きるのでしょうか。それは物質への執着がゆえ、です」と言っています。
私もそう思います。
しかし、執着などがなくても起きる悲しみもある気がします。
素直に生きていたら、理由もなく悲しくなることもある。
それを理解しないスマナサーラさんは解脱してしまったのかもしれません。
彼はこうも語っています。
「人を不幸にしているのは、怒り、欲望、執着などです」
たしかにそうかもしれません。
しかし、これもどこかに違和感があるのです。
小池さんはこう語っています。
「よいことがあっても調子に乗らず、悪いことがあっても落ち込まないことで、心はやすらぎ平静を得られます。そうすれば、どこで何が起きても心がぶれず、最高の幸せが得られるのです」
私には、意味のない同語反復に思えますが、最高の幸せなどという言葉にも卑しさを感じます。
幸せにも最高と最低があるのでしょうか。
あるとしたらきっと「価格」もついているのでしょうね。
お2人に共通しているのは、「幸せのすすめ」です。
しかし、「幸せ」は人それぞれです。
画一的な幸せを大安売りするような人たちを、私は好きにななれません。
それが私の違和感のもとなのです。
鈴木さんがこの挽歌を読んだら、気分を害するかもしれません。
しかし、鈴木さんはなにしろインドのアシュラムで行を積んできた人ですから、「極限の無知」に迷う衆愚も見捨てることはないでしょう。
節子
今日も、心安らぐこともなく、怒りに思いをぶらせながら、節子のいない悲しみのなかで、1日を幸せに過ごしました。
そのため、こんな八つ当たり的な挽歌になってしまいました。
最近、怒りと悲しみで、壊れそうです。
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