■過剰の時代の経済学
ある雑誌の取材にも応えたことがあるのですが、経済学の前提がさまわがわり様変わっています。
いまは経済の牽引力になっている企業の経営資源について考えてみましょう。
企業の経営資源は「ヒト・モノ・カネ・情報」といわれますが、そのすべての状況が変わっています。
まずモノでいえば、物不足は解消され、物があふれています。
その反面を、モノを作る自然環境や資源が枯渇しつつあります。
同じ行為が、「生産」から「消費」へと移りつつあります。
カネも余っています。
実体経済に必要な通貨を上回る過剰流動性がいたるところで悪さをしています。
それに基づいて、企業の、したがって経済のガバナンスが金融支配へと移りました。
ヒトももちろん余っています。
これは言う前でもありませんが、生産性向上とは人の仕事を減らすことです。
景気はよくなっても失業率は改善されません。
情報も言うまでもないでしょう。
生産者よりも顧客のほうが情報をたくさん持てる時代です。
つまりいまは「過剰の時代」です。
不足を前提にした、これまでの経済学や経営学は役には立ちません。
むしろ危険な落し穴でしかありません。
貧困問題もまた意味が変わってきています。
不足の時代の貧困と過剰の時代の貧困は、内容も違っていますから対策も当然違います。
多くの人が、そんなことにはすでに気づいているでしょう。
しかし、実際の行動においては、相変わらず不足の時代の発想で動いているように思います。
こういう話を企業の人を相手に時々話させてもらいますが、聴いた人の行動は変わりません。
なぜなら部分的に変えてしまうと、企業を瓦解させかねないからです。
一度習得した知識体系は、なかなか変えられません。
それはエネルギーに関する知識体系が、原発事故が起こったにも関わらずになかなか変えられないのと一緒です。
最近、ケアリング・エコノミクスとか「分かち合いの経済学」という提唱が増えています。
経済成長に依存した経済学の呪縛から自らを解放するためにも、そうした主張は参考になります。
残念なのは、こうした「新しい経済」の文化は、日本にこそ強く存在したにもかかわらず、それらが急速に失われてしまったことです。
新しい経済パラダイム、あるいは経済パラダイムの転換のヒントは、私たちの生き方の中にあるような気がします。
もう一度、思い出さなければいけません。
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