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2011/08/09

■節子への挽歌1437:「常在悲感」

仏教の話が続いたついでに、もう1回だけ。
「常懐悲感、心遂醍悟」の話が出てくる法華経寿量品には、もう一つ有名な言葉があります。
「常在霊鷲山」です。
霊鷲山は、ブッダが法華経を説いた聖山ですが、ブッダの寿命は永遠であり、常に霊鷲山に在って説法を続けている、というのです。
空海がいまなお、高野山の奥の院で衆生の救いを念じているのも、同じことかもしれません。

仏教の心を説き続けている紀野一義さんは、「常在霊鷲山」と同じように、「常懐悲感」ではなく「常在悲感」でなくてはいけないと言います。
「常懐悲感」、悲感を懐く(いだく)というのでは、私と悲感は別ものになります。
しかし、「常在悲感」であれば、私は悲感の中にある、つまり悲感と私はひとつということになる、というのです。
理屈っぽく感じるかもしれませんが、深い悲感を体験すると、そのことがよくわかります。
悲感は、私そのもの。いまの私には違和感なく納得できます。

だから何だと言われそうですね。
まだうまく説明できませんが、たとえば、悲感は切り離せないということです。
懐いている悲感は忘れることも捨てることもできるでしょうが、「常在悲感」の悲感は捨てることもできません。
また、「常在悲感」は、私は常に悲感のなかに在る、ということであって、悲感が常に私の中に在るということではありません。
ですから、悲感から抜け出ることもできないのです。

なにやら「悲しい人生」と思われるかもしれませんが、そうではありません。
悲感の世界にも、喜びも楽しさもある。
むしろ、ちょっとした優しさや気遣いに感激できるようになって、喜びは多くなるかもしれません。
「悲感の世界」は、細やかな感情の機微が見えてくる、むしろ豊かな世界なのです。
「常懐悲感」の場合は、自分の懐く悲感だけが重く感じられて、世界が見えなくなることもあるかもしれませんが、「常在悲感」にある人は、悲感を分かち合う優しさが生まれるのです。

私がこういう心境になってきたのは、ついこの数か月のことです。
いえ、今も時々、自分の「悲感」の重さに潰されそうになることもないわけではありません。
しかし、3.11の東日本大震災で生まれた多くの人たちの「悲感」に触れて、「悲感の世界」がようやく見えてきたような気がしています。

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妻への挽歌08」カテゴリの記事

コメント

おはようございます。
本当に心奮い立つような気持ちです。悲しみの中に喜びも楽しみもある~
そう思います。が、誤解される場合もありまして~悲しいけど、喜びもあると言うと怪訝な顔をされる時があります。悲しみの中で得た心地なのですから~悲しくても亡くなった主人を守る喜びもあります。
人の心遣いに嬉しく、楽しく思えるのは、悲しみの中からですね。こちらの記事に感銘しました。法華経をお勉強したくなりました。難しい事ですが、また、ご仏縁を頂きました。ありがとうございます。

投稿: ライム | 2011/08/11 09:41

ライムさん
返信が遅くなりました。
いつもありがとうございます。

私も仏教についてはあまりわかっていません。
お経も般若心経以外は読んだことはないのです。
ただ寺院の本堂の雰囲気が好きで、そこに座ってぼんやりしているのが好きでした。
昔は妻とよくお寺にも行きましたが、最近はあまり行きません。
京都や奈良に行きたいと思うのですが、どうも一人で行く勇気が出てきません。
娘を誘ってはいますが、なかなか難しそうです。

先日、国立博物館で仏像と久しぶりに会いました。
彼らの表情を見ていると、いろんな思いが沸き起こります。
それで最近少し仏教関係の話を書き込めました。
勝手は話ばかりですが。

>人の心遣いに嬉しく、楽しく思えるのは、悲しみの中からですね。

そう思います。
それを知ったのが、妻を失うという、あまりに大きな悲しみだった後だったのが少し残念です。
この感覚を妻と一緒に共体験したかったです。
ライムさんも、きっとそうでしょうね。

今日は妻の命日でした。

投稿: 佐藤修 | 2011/09/03 22:21

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