■節子への挽歌1454:臨読
節子
節子は、自分に向けて書かれているので、この挽歌を毎日読んでいるでしょう。
そろそろ終わりにしてよ、と思っているかもしれませんが。
ところが、これまでの挽歌を一気に読み進んでいるらしい人が出てきました。
なぜわかったかというと、その方が先日、次のようなコメントを寄せてくださったのです。
佐藤さんのこの「挽歌」を順番に読ませていただいています。なにしろ1450を超えていますから、1項目1000字弱として、140万字なのです。
どれも、一つ一つの言葉が心に染み入ってきます。
面白ければともかく、私のつぶやきでしかない挽歌を通読するには、よほどの思いがなければできません。
この方とは面識はありませんが、すさまじいエネルギーが感じられます。
昨日、「臨書」ならぬ「臨読」のことを書きました。
臨書とは、手本の書の字体とそっくりに書くことです。
手本に可能な限り似せて書くと、その手本を書いた人の気持が分かるのだそうです。
先日、NHKの空海の番組でそれを知りました。
また最近、知人が、空海の書を臨書すると元気がもらえると、フェイスブックで教えてくれました。
私も昨日書いたように、忌野清志郎のDay Dream believer の歌詞を読み上げたら、曲を聴いていたのとは違った思いが実感できました。
それを「臨書」をもじって「臨読」と書いたのです。
私の挽歌を通読し終わったら、どのような思いが起こるか、実はいささかの期待と不安もあります。
この方は、ご自身の愛と哀しさを強くお持ちですから、臨読によって、私の思いの奥の奥までがきっと見えてしまうでしょう。
私にはまだ見えていないことも見えるかもしれません。
読み終えた時のコメントが、楽しみでもあり、不安でもあります。
いつか、私も自分で書いたこの挽歌を読み直すことがあるでしょうか。
節子はたくさんの日記を書き残していきましたが、私はまだ読めずにいます。
日記を臨読する勇気は、いまのところありません。
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