■節子への挽歌1439:私だけの悲しみ
友人が体調を崩しました。
なにやらややこしい病名で、身体が自由に動かなくなっているそうです。
電話で、服を着替えるのに1時間もかかってしまう。これまで身体の不自由になった高齢の父に無理を強いていたことに気づいた、というようなこと言ってきました。
体験しないとわからないことはたくさんあります。
いや、すべてがそうなのです。
しかも、その「体験」は人によって違いますから、実は人の気持ちなど、わかるはずもないのです。
そういう認識があって初めて、他者への思いが通じ合えるのかもしれません。
私の悲しみは、私だけのものです。
しかし、だれかにわかってもらいたいという気持ちがどこかにあります。
そして同時に、誰にもわかるはずがないという、怒りのような気持ちもあるのです。
一番安堵できるのは、私の悲しみを誰かがわかってくれた時ではありません。
私が誰かの悲しみを少しだけわかったような気持ちになった時なのです。
私だけの悲しみを守りながらも、その世界を広げられたと思えるからです。
大切なのは「自動詞」なのです。
悲しみの世界の中では、私が常に主役でありたいのです。
私だけの悲しみ、って、しかしなにか「少女趣味」ですね。
俺だけの哀しみ、といえば、男らしいでしょうか。
まあそんなことはどうでもいいのですが、最近、少しずつ悲しみの意味がわかってきたような気がします。
独りよがりといえばそうなのですが、何だか少しずつすっきりしてきた気がします。
最近、悲しみの話が続きました。
そろそろ悲しみの世界から抜けないといけないのですが、
しかし最近なにやらとても「悲しい」のです。
お盆が近いからなのか、8月だからなのか。
その悲しみを「共にする」節子がいないのが、どうも理解できないのですが。
ライムさんがコメントに書き込んでくれました。
素直に心に入りました。
ありがとうございました。
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