■セミとカマキリ、もしくは正義と悪行
いま起こった事件です。
夜なのに、外でセミの鳴き声がします。
それも元気のない中途半端な鳴き方です。
なかなか鳴き止まないので外に出てみました。
探してみると暗闇の茂みでカマキリにアブラゼミが捕まっていました。
反射的にカマキリをたたいたら、セミを手放しましたが、セミは元気がなく飛べません。
それで離れた樹木にセミをとまらせました。
とまあ、こんなことなのですが、私がやったことは正しかったのか。
セミは一命を取り留めましたが、カマキリはせっかくの獲物を奪われたわけです。
セミにとっては私は命の恩人ですが、カマキリにとっては私は強盗です。
正義と悪行は立場によって変わるものです。
瑣末な事件なのですが、どうも気分がすっきりしません。
昨日のパスカルの正義論を思い出します、
しかし、私がカマキリをたたいたのは反射的な行動でした。
生命を奪われそうなものがいれば、誰もが起こす行動でしょう。
正義だとか強盗だとかは、まるっきり頭にはありません。まあ当然ですが。
しかし、相手がセミとカマキリでなかったらどうでしょうか。
9.11事件の後、ブッシュ大統領は、「やつらを捕まえるか、殺すかだ」と述べました。
ビン・ラーディンを国際裁判にもかけずに処刑したオバマ大統領は、「正義が執行された」と述べました。
そして日本の政府は、それに異議申し立てもせずに、応援したのです。
国家であれば、こんなことは日常茶飯事なのでしょう。
外交面だけでなく、内政においても、たぶんよくある話です。
そこに国家の特徴があるわけですが、どうもこうした国家の事件と先ほど体験したセミとカマキリへの私の介入事件との間にもまた、同じようなことが連続的にあることに気づきました。
つまり私はカマキリにだけではなく、人に対しても、あるいは組織や制度に対しても、同じようなことをやっているのではないかと思います。
注意しなければいけません。独善的な正義感に襲われかねないからです。
今回の「事件」の救いは、反射的行動だったことです。
反射的な行動は、たぶん生命に埋め込まれた自然な行為ですから、生態系的にたぶん合理的なのです。
小賢しい「正義論」は無縁な、自然の行動です。
みんなが自然に行動しだすと、カマキリは滅亡しかねませんが、たぶん人によっては、カマキリを応援するように仕組まれているのだと思います。
小さな事件ですが、実に多くのことを考えさせられます。
しかし、こういうように考えを広げていくのが、小賢しさなのでしょうね。
いずれにしろとても後味の悪い事件でした。
セミを助けたという気にはなれませんね。
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