■節子への挽歌1440:曼荼羅のおどり
節子
昨夜はチビ太〈16歳の老犬〉に起こされて、真夜中、彼に付き合って起きていました。
そばにいないと鳴くので、彼の近くで先日録画した「空海 曼荼羅の宇宙」を見ました。
魅了されました。
チビ太どころではなく、気がついたらチビ太は寝ていました。
もしかしたら、節子の時の私の看病も、こんなだったのでしょうか。
大いに反省させられました。
魅了されたのは曼荼羅の前で踊るダンサーの森山開次さんです。
彼は空海が修行した地で空海が仰ぎ見た星空を追体験したり、さまざまな曼荼羅に触れたりしながら、踊りを生み出していくのですが、その過程で曼荼羅の意味が解き明かされていきます。
私が感動したのは、奈良国立博物館にある子島曼荼羅です。
紺の綾地に金と銀で描かれた両界曼荼羅です。
その前で、森山さんは、曼荼羅が心のなかまで包み込んでいくような気がすると話していましたが、テレビ画像からでさえ、そう感じました。
曼荼羅の仏と一体化したような森山さんの「おどり」は、私には少し違和感のあるものもありましたが、魅了されました。
曼荼羅世界は仏たちの饗宴だったことを、改めて実感させてもらいました。
そして曼荼羅に、これまでにない親しみを感じました。
森山さんは、みずからのおどりについて、こう話していました。
やっぱり私は人間だし、ほとけの踊りをしたいとは思わなくて、いま感じている等身大の自分がそこに向き合って出てくる感情を隠さないで、悲しいことや醜い心や、いろんな気持ちを出していきたい。とても共感できる言葉であり、また森山さんのおどりには、確かにそれが感じられました。
「怒り」も、恐ろしいまでに見事に演じられていました。
同時に、私には嘆きも感じられました。
悲しみ、醜さ、喜び、怒り、嘆き。
曼荼羅には、そうしたすべてが仏たちによって込められているようです。
そして、その曼荼羅の世界は、まさに私が生きている、この世界です。
森山さんのようなすばらしいおどりは、私には出来ませんが、その時々に湧き上がってくるさまざまな感情を素直に出しながら、無邪気なほとけたちと共にありたいと思いました。
明日は節子の迎え火です。
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