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2011/08/08

■節子への挽歌1436:慈悲を込めた怒り

節子
上野の国立博物館で「空海と密教美術展」をやっています。
仏像はお寺で見たいという思いが強いため行く気はなかったのですが、ユカのお勧めもあって行くことにしました。
まだ行ってはいないのですが、昨日からテレビで3夜連続の「空海」特集をしています。
その第1回目は「仏像革命」。
東寺の立体曼荼羅にある怒りの表情の明王がテーマでした。
空海がもたらした、怒りの仏像の意味が、さまざまに語られていました。

慈愛に満ちた穏やかな表情の仏像と怒りの表情の明王像とは、たしかに対照的です。
如来を守る四天王像もまた、時に怒りの表情を見せています。
それは仏が守る平安な世界に攻め入る「仏ならざるもの」への威嚇だと考えられますが、私はずっとそれに対して違和感を持っていました。
山川草木悉皆仏性というのであれば、「仏ならざるもの」は存在しないはずです。
帝釈天は誰と戦っているのか。
一説では阿修羅ですが、阿修羅もまた仏の世界にいるものです。

こうした疑問は、しかし解くべき問題ではないのかもしれません。
なぜなら、山川草木悉皆仏性とは、山川草木悉皆魔性をも含意するからです。
さらにいえば、仏性と魔性とは、コインの表裏、不一不二なのです。
こういう話こそ、いま必要だと思いますが、救いを説く僧尼たちは、あまり語りません。

仏師の松本明慶さんは、「怒り」の表情に慈悲を感ずる人もいるといいます。
その怒りの表情の先が、自らの「敵」に向けられていると感ずれば、むしろその「怒り」は「慈悲」に通ずるというのです。
たしかに言われてみればその通りです。
その怒りは、自らを守ってくれる意志の強さを表わしていることになります。
つまり、仏が向いているのは、拝む私なのか、私の顔が向いている先なのか。
それによって、仏の表情の意味は一変するわけです。

しかし、空海が求めた「怒り」の表情は、それとはまた違っていたようです。
番組の語り手でもある作家の夢枕漠さんは、一番の悲しさは愛する人を亡くした時だと言います。
しかも、それが病気や天災であれば、その悲しみや怒りを向ける矛先がない。
慈悲の表情だけでは、そうした悲しみは救えないというのです。

仏の怒りが向けられているのは、拝む人、つまり私ではないか。
そして、その怒りは、私の深い悲しみ、深い怒りに、同調してくれているのではないか。
つまり、怒りの矛先がわからない私に代わって憤怒の表情を示してくれているのではないか。
だからこそ、恐い顔の不動明王は、心を鎮めてくれる存在なのです。
そこにあるのは、慈悲を込めた怒りなのです。

「一番の悲しみ」を体験したおかげか、こうしたことが少しずつわかってきて、怒りの表情の中に慈悲を、慈悲の表情の中に、怒りを感じられるようになって来ました。

いまなおわからないのは、大笑いしている仏の顔です。
まだ笑いの中に慈悲を読み解く事ができずにいます。

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