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2011/08/04

■小さな理と大きな理

近代を発展させてきた基本は「理性」と「論理」でした。
それらの「理」に適うこと、つまり「合理的」であることが大切な判断基準でした。
しかし、これから大切なのは、その「理」を超えることではないかと思います。
少なくとも「小さな世界の中での論理」や「個人の世界での理性」の限界を認識する事は大切なような気がします。
個人が考える「理性」や「論理」は、たかが知れているように思います。

日本の政治が迷走しているのは、内部的な「理」に呪縛されているからかもしれません。
そこには「大きな理」は感じられません。
昨今の原発論議に関しても、「小さな理」が不寛容にぶつかりあっているように思います。
私のところに配信される平和のメーリングリストを読んでいて感ずるのは、発言者の「思いの深さ」が逆に発想の根底となる「理」の世界を狭めているように思うことも少なくありません。
まあ俗な言葉を使えば、「内ゲバ」的な応酬さえ散見されます。
それではせっかくのエネルギーと知恵が、瑣末な相違で消耗し合いがちです。

しかしこうしたことは、組織活動の常かもしれません。
組織は「ノイズ」を嫌いますが、「大きな理」よりも「小さな理」のほうが、ノイズを起こしやすいからです。
「大きな理」は外を向いていますが、「小さな理」は内部の相互関係において顕在化しがちです。

「大きな理」は感情を支え、感情に支えられますが、「小さな理」は、時に「感情」に振り回されます。
私は感情を包含しない理性には信頼を持てませんが、感情に支配された理性もまた共感し難いです。

なにやらまた訳のわからないことを書きましたが、昨今のさまざまな動きに、昔考えていたことを思い出して、書いてしまいました。
「小さな理」を装った「私的な感情」が横行しているのが、どうにもやりきれません。
感情は、もっと大らかでありたいものです。

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