■節子への挽歌1433:常懐悲感、心遂醍悟
常懐悲感、心遂醍悟。
法華経寿量品にある有名なことばです。
常に悲感をいだいて、心ついに醒悟する、と訓読みします。
人は絶えず悲感に打たれることによって眼をさますことができる。
幸福のなかにどっぷりつかって、積極的な生きかたを忘れてしまった人間に必要なのは、悲感である、というわけです。
悲感を胸中に抱きながら生きることは辛いことだろうと、私も以前は思っていました。
もちろん辛いことではあるのですが、悲感と無縁に生きることと比べて、どちらを選ぶかと問われたら、今の私は迷います。
法華経の解説書を読むと、こういうようなことが書かれています。
人は、悲感に囚われると、なんとかしてそれから逃れようとする。
たとえば、その悲しみを他人に話すことによって悲しみを消そうとする。
こういうものを愚痴という。
しかし、愚痴をこぼしたって、事態は良くならない。かえつて悪くなる。
むしろ、悲感を自分の胸のなかに抱いていることが大切だ。
その悲感があなたの心を浄化する。
悲感は、冬のすみきった寒気のように、痛いほどに鋭いが、その鋭さが心地よく気持ちをほぐしてくれる。
そして、心を醒めさせてくれる。
今の私には納得できます。
だとしたら、この挽歌は「愚痴」なのか。
空海に、彼の愛弟子の智泉が早逝した時の逸話が残っています。
空海は、その悼文の中で、こう書いているのです。
「哀れなるかな。哀れの中の哀れなり。悲しきかな、悲しきかな、悲の中の悲なり。
(中略)しかれどもなお夢夜の別れ、不覚の涙に忍ばれず」
悲しさは思い切り表現してもいいのです。
しかし、表現してもそこからは逃れられません。
あとはただ、常懐悲感。
悲感を抱きながら生きることが、いつしか生きる意味を生み出してくれるのです。
悲感しながらも、悲感から目を逸らさずに、しかし素直に生きることに、少し慣れてきたような気もします。
| 固定リンク
「妻への挽歌08」カテゴリの記事
- ■第1回リンカーンクラブ研究会報告(2021.09.06)
- ■節子への挽歌1600:「節子がいる私」と「節子のいない私」(2012.01.20)
- ■節子への挽歌1599:苦労こそが人を幸せにする(2012.01.18)
- ■節子への挽歌1598:青空(2012.01.17)
- ■節子への挽歌1597:家族と夫婦(2012.01.16)
コメント
こんにちは~
読ませていただく内、涙が出てきました。
…読んでよかったと思っています。ありがとうございます。
今から気分転換にお散歩。海を久し振りに見てきます~
投稿: ライム | 2011/08/05 15:54
ライムさん
海はどうでしたか。
海の向こうが見えましたか。
投稿: 佐藤修 | 2011/08/06 10:08