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2011/08/01

■節子への挽歌1428:節子は悪女ではありません

挽歌1245「生き方を変える」で、
私はまだ、節子との別れで変わってしまった人生を「いいもの」とは思えずにいますが、発想を変えれば、その「価値」が見つかるかもしれません。
と書いてしまいました。
実は少し自問自答しながら書いた文章だったのですが、案の定、読者のYHさんから厳しいつっこみがありました。

発想を変えれば節子さんとの別れの「価値」を見つけることができますか?
「いいもの」と思えるようになるとほんとに考えていらっしゃるのですか?
 YHさんも、伴侶との別れを体験されたのです。
YHさんのメールを読んだ時には、怒られた気分になってしまいました。
「価値」ではなく「意味」と書けばよかったなと小賢しいことを一瞬考えましたが、指摘されていることは、そんなことではないでしょう。
そもそも「いい」とか「よくない」とかという発想そのものが間違っているのです。
「いい」とか「よくない」とかという発想は、愛する者を失ってしまうと、実際には無くなってしまいます。

しかし、節子がいなくなった後の人生が、もし不幸なものであるならば、節子は「悪女」になりかねません。
愛する私に「不幸」を残していったのですから。
もしそうであれば、節子には後ろ髪引かれるような辛い別れだったでしょう。
そして私への罪悪感が残るでしょう。
それでは快適な彼岸の生活は望めません。

節子がいなくなった後、頭では「不幸」を感じたことはあります。
節子の位牌に向かって、よく「節子のおたんこなすめ」とよく呟いたものです。
なぜ置いていってしまったのか、恨むような気持ちが起こったこともあります。
なぜ愛する者に、こんな悲しい思いをさせるのか、怒りたくもなりました。

しかし、節子がもし私が思っているような「いい女」であれば、私を不幸にするはずはありません。
節子はそんな薄情者でも自分勝手な人でもありません。
節子は、ただただ私の幸せを望んでいました。
だとしたら、節子との別れで変わってしまった人生には必ず意味があるはずです。
それを「いい人生」と思えれば、節子に感謝することはあっても、恨むことはないでしょう。

日本には言霊信仰があります。
言葉にすればそれがいつか実体を伴うようになる、という信仰です。
その信仰があればこそ、私は節子に向かって、真言を唱えます。
般若心経もあげるのです。
空海は「名はかならず体を招く。これを実相と名づく」と書き残しています。
節子がいなくなってからのことも含めて、節子との人生は「いい人生」だったと思いたいというのが、私の最近の心境です。

YHさん、これでは納得してもらえないでしょうが、少しだけ先輩である私は、そんなところに辿りついています。

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