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2011/08/13

■「最後の絆~沖縄 引き裂かれた兄弟」を見ました

フジテレビの終戦記念特番の「最後の絆~沖縄 引き裂かれた兄弟」を見ました。
実話に基づくもので、途中に登場人物のインタビューなども挿入されています。
実際の映像とドラマ映像が、自然につながっていて、実に感動的でした。
「事実は小説より奇なり」という言葉を思い出す物語です。
あらすじは次のサイトをご覧いただきたいですが、大筋は沖縄の熱血勤皇隊に入った16歳の少年兵と開戦前にアメリカに出稼ぎに行ってアメリカ兵になった兄とが、激戦の沖縄で出会うという話です。
http://www.fujitv.co.jp/kizuna/story.html
テーマは、タイトルの「家族の絆」です。

たまたま昨日、このブログで「マルチチュード」について書きました。
マルチチュードは「言葉」(文化)と「通貨」(経済)という2つのメディアによって生まれる基盤がつくられていると書きました。
そして、マルチチュードは民主主義を進化させる主体にもなれば、従順な管理客体にもなりうるとも書きました。
表現はそのままではありませんが、そういう主旨のことを書いたつもりです。
しかし、重要なことを書き落としています。
それは、マルチチュードがそのいずれに向かうかを決める、もう一つの要素です。
このテレビドラマを見ていて、そのことをやはり書いておかないといけないと思いました。
その要素とは「愛」です。

愛はどこから生まれるかは、難しい問題です。
愛の原型は「家族」ではないかと思いますが、家族の愛には2種類あります。
親子愛や兄弟愛といった「存在する愛」と夫婦愛のように「発生する愛」です。
両者はいずれも家族関係に支えられていますが、その形成原理は異質です。
その両者を育む場としての家族、あるいは家庭を、どう位置づけるかによって、マルチチュードの方向性が決まってくるように思います。

このドラマは、国家を超えて、あるいは敵味方に立場は変わっても、家族の絆が勝るということを示しています。
私などは、それは当然だと思いますが、家族が敵味方に別れて戦った事例は日本の歴史の中にもたくさんありますから、当然とはいえないでしょう。
子どもたちを洗脳して親の思想を摘発したナチスの例に見るように、家族は使いようによっては、人を引き裂くための道具にもなるのです。
社会における家庭の位置、家族の役割をどう考えるか。
政治にとって、これはとても重要な問題です。
いま話題の「子ども手当」や以前さけばれた「介護の社会化」は、こういう側面から考えるとまた違って見えてきます。

経済においてはもっと重要な問題です。
これまでの市場経済から言えば、家族や家庭は無用の長物であるばかりか、市場拡大にとっては邪魔な存在でした。
ですからこの数十年、日本の家庭や家族は壊され続けてきました。
しかし、イリイチが提唱する生活のための経済、サブシシテンス経済にとっては家族や家庭がきわめて重要な意味を持っています。

このドラマは、戦争や平和だけではなく、さまざまなことを考えさせてくれたドラマでした。
しかもその主人公のお2人は、いまも健在です。
昨年は沖縄で再開しています。
とても考えさせられるドラマでした。
私は滅多にドラマは見ませんが、娘が見ていたので、ついつい見てしまいました。
たまにはドラマもいいものです。

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