■節子への挽歌1451:明王の怒り
上野の国立博物館で開催されている「空海と密教美術展」に行ってきました。
テレビの空海特集番組で「怒りの仏像」を見ていたこともあって、明王像に目が行きがちでした。
明王を、怒りを意識してみるのは初めてです。
明王がなぜ憤怒の表情をしているのか、ということを改めて意識したことなどなかったからです。
それに私の意識の中では、明王にはあまり関心はなかったのです。
それに、仏像は慈悲に満ちた温和な表情が好きでした。
しかし、怒りを意識して明王や四天王などを見ると、たしかに伝わってくるものがあります。
それに、思い出せば、憤怒とは言わないまでも、怒りを感じさせる如来蔵や菩薩像もあります。
私自身、恐ろしくなって逃げ出したこともあります。
京都の勝林院の阿弥陀如来です。
怒りは、「思いどおりにならない状態に直面したときに誘発される感情」だといわれます。
怒りの表情は、それを向けた相手の意識や行動を変える効果があります。
明王は、衆生の生き方を変えさせようと、怒りを発しているのでしょうか。
これまで私は、何となくそう感じていました。
慈悲だけでは衆生は救えない、だから空海は仏像に怒りを持ち込んだともいわれます。
でもそうなのだろうか。
怒りは自らに向けるべき表情ではないとも言われます。
自らに向けても意味がないですし、そもそも向けられない。
しかし、怒りはむしろ自らに向けられる時にこそ、本来の意味を持つ表情なのではないか。
私もたぶん、ある時期、怒りを心身に出していたはずです。
どこに向けていいかわからない、怒りの念が強まってきて、それが顔に出てしまうのが、自分でもわかったこともありました。
その多くは決して「誰か」に向けられたものではないのですが、たまたまその時、相手をしていた人は自分に向けられたと思ったかもしれません。
たしかに周囲の人たちが無性に腹立たしかったこともあります。
私の気持ちも知らないで、と逆恨みしたこともありますが、その時でさえ、素直に相手を受けいれられない自分への嫌悪感や苛立ちが、腹立ちの原因でした。
怒らせているのも自分、怒っているのも自分という、奇妙な状況に入ると、なかなかそこから抜けられません。
展示会場につくられたミニ立体曼荼羅空間で休みながら、そんなことをいろいろと考えさせられました。
そして改めて明王の怒りを見て感じたのは、その奥にあるやさしさや悲しみ、あるいは弱さでした。
怒りの表情が仏像に現れたのは、仏像が成長した結果なのではないか、そんな、わけのわからないことを考えながら、会場を出ました。
節子にも見せたかったです。
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