■節子への挽歌1450:夢のような世界
少し前に、夢だと思って見ている夢のことを書きました。
この種の夢は「明晰夢」というそうです。
「明晰夢をよく見る人は、やがて見ている夢を自分でつくり変えることが可能になる」と、ある本に書かれていました。
最近、そうした明晰夢を見ることはなくなりましたが、以前はよく見ました。
ところが、なかなか思ったようにはなりませんでした。
空を飛べる夢を見ても、思うように飛べなくて、失敗するのです。
節子がいなくなった後、節子の夢を見たいと思うこともありました。
しかしなかなか思うようにはなりませんでした。
その頃からでしょうか、私はあまり明晰夢を見なくなったような気がします。
夢は寝ている時だけ見るものではありません。
生きている時も見る夢はあります。
希望や目標と言ってもいいかもしれません。
両者は全く違うものではないかと思いますが、なぜか同じ「夢」という言葉で表わされます。
いずれも「質感のない映像」のようなもので、いとも簡単に壊れてしまいます。
しかし、寝ている時に見る夢は「現在」の話です。
一方、生きている時の夢は「未来」の話です。
それがどうして同じ言葉で語られるのか不思議です。
両者はきっと深くつながっているのでしょう。
節子と一緒に描いていた私の「夢」は、節子と共に消えました。
それに代わる夢を持てない私は、それ以来、夢がなくなりました。
しかし、もしかしたらすべてが夢になってしまったということかもしれません。
節子のいない人生は、夢のようだともいえるからです。
「夢」という言葉は不思議な言葉です。
最近、明晰夢をみなくなったのは、現実が夢のような世界になったからかもしれません。
しかし、その現実も、なかなか思うようには変えられません。
困ったものです。
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