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2011/08/14

■節子への挽歌1442:愛するものたちの帰省の夏

節子
昨夜は明け方までチビ太が眠らずに、大変でした。
お医者さんからもらっている頓服薬を飲ませても、なかなか効果が出てきませんでした。
今日も暑い日です。

3.11の津波で、妻と娘と手を握り合って逃げていたのに、津波に襲われて手を放してしまい、家族を失ってしまった男性の嘆きを、何回かテレビで見ました。
昨夜もその映像に出会いました。
記録映像は時に残酷です。

その人は、「手を放してしまった」と表現しました。
「手を放したこと」への呵責が感じられます。
一緒にいた愛するものたちと一瞬にして引き裂かれてしまう。
これほどの悪夢はないでしょう。

その映像を見ていて、私はいつも思います。
「手を放した」のではなく「放し合った」のだ、と。
なぜならそれまで「手を握り合っていた」のですから。
「手を放す」と「手を放し合う」とどこが違うのか、
と問われそうですが、私にとっては大きく違います。

愛し合うものたちの行為は、如何なるものにも「意味」があります。
逃げる時に手を握り合うのも、危機を逃れる時に手を放し合うのも、です。
もしそこに「意思」が働くならば、だれもが手を話すはずはありません。
手を放し合ったのは、お互いに愛し合っていたからこそだ、と私は思います。
そして、誰かが遺された。
遺されたものの辛さは、遺されたものでなければわからないでしょう。

昨日、時評編に書いたドラマ「家族の絆」のなかの実際の取材映像で、沖縄の防空壕に爆弾を投げ入れられた中から奇跡的に生き残った人が生き残ったことの辛さを話していました。
その時の光景がいつも浮かんできて、心やすまることがないというのです。
目が覚めてしまった人には、悪夢が永遠につづくのです。

その悪夢を終わらせることができるのは、逝ってしまった愛する人だけです。
昨日から、彼岸と此岸がつながるお盆です。
愛する者たちがいまたくさん戻ってきているでしょう。
たくさんの悪夢を燃やし尽くしてほしいと願います。
この暑さは、そのせいかもしれません。

わが家にも節子が戻っています。
チビ太の興奮はそのせいかもしれません。
私もなお、「手を放してしまった」ことの悪夢から完全には解き放たれてはいないのですが。
この時期は、夢をよく見ます。

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