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2011/08/30

■節子への挽歌1458:大師堂

空海で思い出したことがあります。

滋賀県高月町の節子の生家の近くに「大師堂」があります。
弘法大師(空海)への信心の厚い人が集落の人たちに呼びかけて、20年ほど前に建立したのです。
とても立派なお堂です。
そのあたりは浄土真宗なので、なぜみんながお大師様を信仰するのか理解できませんでしたが、おそらくそれらは次元の違う話なのでしょう。
その大師堂の建立には、節子もわずかばかし寄進したのですが、当時、私はその意味がわからず、無関心でした。
大師堂が完成してからは、帰省するたびに節子と一緒に大師堂にお参りに行きました。
そこは村人たちの、いわばサロンの場なのです。
いつもいくとだれかがお参りしており、話が始まります。
面白い空間です。
節子のおかげで、私もお参りさせてもらえました。

大師堂の壁には寄進者の名前が掲示されています。
節子の名前も書かれています。
私の理解が深ければもう少しきちんと寄進したのですが、当時はまだ私はあまり関心がなく、そうした動きにも関心がありませんでした。
ですから節子から話があったときにも、いいんじゃないのと、あまり気乗りしない返事をしたのではないかと思います。
節子の思いに応えてはいなかったかもしれません。
ですから節子は心ばかりの寄進に留まったのだと思います。
しかし帰省すると節子は必ずその大師堂に私を誘いました。

その大師堂にも、私はもう行くことはないでしょう。
そこで初めて出会った村のおばあさんたちと話している時の節子は、私には輝いて見えましたが、その節子を思い出すのは、いまの私にはちょっと耐えられそうもないからです。
そういう場での節子は、なぜかいつも輝いていました。
そう思うと、節子とは一体なんだったのだろうかと、ふと思うことがあります。
平凡すぎるほど平凡で、才も色もあんまり持ち合わせていなかったと思いますが、私には特別の存在だったのです。

人は、だれかとの関係において、輝いたりくすんだりするものです。
才も色も、個人の中にではなく、関係性の中に存在するのかもしれません。
節子のことを思うとき、いつもそう思います。
節子は私だけに輝いていたのかもしれません。
私も、たぶんそうだと思います。
私のことを心底知っていたのは、節子だけだったように思います。
自らを知る者がいる時ほど、がんばれることはありません。
最近はあんまりがんばれずにいます。
困ったものです。

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