« ■広島での菅首相のスピーチに気分が悪くなりました | トップページ | ■ハンマーカンマー異変 »

2011/08/06

■節子への挽歌1434:「身体」のある言葉

節子
生死や愛に関わることについて、いろんな人がいろいろと言いますが、私にはピンと来ることがあまりありません。
特に「仏教者」や「知識人」と言われる人の話の多くは、素直には心に入ってきません。
これは、私の性格の悪さのためかもしれませんが、「わかったようなこと」を言われると、ついつい反発したくなります。
しかし、同じことを、実際に体験した人の口から聴くと共感できます。
言葉は発話者と一体になって、意味を形成するということかもしれません。

言葉は「いのち」を持っているという言霊思想は前にも書きましたが、
言葉は「身体」も持っているように思います。
つまり、「節子の言葉」と「私の言葉」は、同じ言葉でも、その意味や効果は違うものだということです。
時々、節子ならこう言うだろうなと思うことがあります。
その時には、必ず節子の姿や表情が対になって思い出されます。
声は聞こえませんが、節子の身体は感じます。

言い換えると、「身体」のない言葉ほど、虚しい言葉はありません。
私が、「宗教者」や「知識人」の話に反発を感ずるのは、それが身体を持たない言葉に感ずるからです。
自分の身体から遊離して、誰かのため、聴き手のために、語られている気がするからです。
読み手のために書かれた言葉も、私には虚しく響きます。
そういう言葉には、「いのち」も感じません。

言葉の出発点は、身体的体験だろうと思いますが、体験がなくても語れるのが、情報社会、知識社会かもしれません。
しかし、知識も情報も、やはり自らの身体を通さなければ、本当の言葉にはならないような気がします。
そうしたことを十分に行わずに、したり顔でお説教されると、「あなたは実体験されたのですか」と、ついつい訊きたくなります。
ちなみに、シッタルダもイエスも、聖書や経典を残したわけではなく、実践を残しただけで最近、「仏教」ではなく「ブッダの言葉」と言うような表現が使われだしていますが、身体と切り離されて着飾ったブッダの言葉は、経典とさほど変わらないでしょう。

ローマ時代の哲学者キケロが、「時間がやわらげてくれぬような悲しみはひとつもない」という言葉を残しているそうですが、この言葉は、たぶん自らの体験談なのではないかと思います。
だから2000年たった今にまで残っているわけです。
ブッダにも同じような、いまもなお生きている言葉があるのかもしれません。
しかし、もしあるとしても、したり顔で解説してほしくないと、性格の悪い私は思います。

|

« ■広島での菅首相のスピーチに気分が悪くなりました | トップページ | ■ハンマーカンマー異変 »

妻への挽歌08」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: ■節子への挽歌1434:「身体」のある言葉:

« ■広島での菅首相のスピーチに気分が悪くなりました | トップページ | ■ハンマーカンマー異変 »