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2011/09/15

■節子への挽歌1474:自然のユニティ

節子
文化人類学者のグレゴリー・ベイトソンは、人間の精神を、個人の脳内に限定せず、環境と一体になった情報システムとして捉えました。
そして、その大きな精神を「自然のユニティ」と呼んだのです。
むかし読んだだけですので、あまり正確には理解も記憶もしていないのですが、その発想にはとても納得したことを覚えています。
その延長に、私はガイア思想や仏教の大きな生命の考え方を重ねています。
私にとっては、有名なドーキンスの「利己的な遺伝子」論よりずっと納得しやすいのです。

自然界そのものを一つの精神と捉えれば、個人の生死は大きな流れの一つのドラマでしかありません。
いや「しかありません」と言うべきではなく、「と位置づけられます」というべきでしょう。
そう考えるとどうなるか。

ここからがまたややこしいので、節子の嫌いな話になりそうです。
個人の生死が大きな流れのドラマであれば、演じている当事者と観ている観客は分けることができるでしょうか。
精神は個人の脳内では完結していなのですから、分けられるはずはありません。
さらにいえば、彼岸に旅立った節子の精神は、此岸にいる私の精神とつながっているのです。
自然のユニティは、いわば情報(精神)が回り続ける、統一された一つの生態系なのです。
そう考えれば、愛する人の死はドラマではありますが、ドラマでしかないのです。
いつかまた再会できるということです。
いや、再会というよりも、そもそも「別れ」はないのです。
節子なら、そろそろ席を立つころですね。はい。

にもかかわらず、節子との別れが、私の心身を拘束するのはなぜでしょうか。
ベイトソンの答は明確です。
現代人が個人の意識を肥大化させたからだと言うのです。
そう言うのは、ベントソンに限りません。
仏教も空即是色と昔から言っていますし、聖徳太子も「世間仮虚」と言っています。
意識が邪魔をして、「自然のユニティ」を生きられないのが現代人です。
なんと小賢しいことか。

個人の意識で生きるとどうなるでしょうか。
時間の速度が変わるのです。
自然に身を任せられなくなって、自然を管理したくなるのです。

だんだん話が大きくなってきてしまいました。
今日は何を書くつもりだったのでしょうか。
自然のユニティのなかに身を任せば、別れなど瑣末なことだ、と書こうと思ったのですが、どうもそうはなりませんでした。
この挽歌は、書いているうちに考えや気分が変わってしまうことがよくあります。
そういえば、ベイトソンは、そんなことも書いていたような気がします。
記憶違いかもしれませんガ、もし明日時間があれば、彼の本で探してみましょう。
いや、こんなややこしい話を書きつづけると節子に嫌われますので、明日はもっと軽い挽歌がいいですね。
どちらになるかは、明日の気分次第ですが。

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