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2011/09/17

■節子への挽歌1476:二度と崩れることのない幸せ

「私が幸せだって?」
夜中に目が覚めました。
なぜか突然、昨日書いた挽歌のタイトルの言葉が思い出されました。
「佐藤さんは幸せだね」
昨日は何の違和感もなく、その言葉を肯定する挽歌を書きました。
そのことが、心のどこかに引っかかっていたようです。
「私が幸せだって?」の声で目が覚めました。

朝起きた時には、もうそのことを忘れていたのですが、
挽歌を書こうとパソコンに向かったら、またその言葉が浮かびました。
昨日書いた挽歌を読み直してみました。
素直に私の心に入ってきました。

愛する人を失うと、「幸せ」という概念が崩れ去ってしまうのです。
「幸せ」がなければ「不幸」もなくなります。
そして、「幸せ」だった時間が凍結され、完成されるわけです。
二度と崩れない幸せ。
だから「佐藤さんは幸せだね」という言葉には否定することもないのです。

二度と崩れることのない幸せは、二度と出会うことのない幸せでもあります。
だから愛する人を失った人は、その世界から抜けようとしない。
その「不幸の中」にいればこそ、「幸せ」とつながっていられるからです。
それに、抜け出ても、新しい幸せに出会うかもしれませんが、出会わないかもしれない。
「幸せ」は一度出会えばいいのです。
欲を膨らませてはいけません。

こういうことは、すべて仏教の経典に書かれているように思います。
私は経典を読む力はありませんから、素人向きの解説書しか読んだことはありません。
解説書でさえ、正直、私には難解です。
でも何冊か読んでいると、伝わってくるものがある。
生き方を問い質されることもある。
あるいは仏像の前に対座させてもらっていると声が観えることもある。

まだ奈良にも行けていませんが、行く時がきたら行くことになるはずです。
すべては大きな流れの中にあるからです。
そうやって、幸せの時を過ごし、「死」を合わせる日を待っているわけです。

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妻への挽歌08」カテゴリの記事

コメント

佐藤様

先日は長々と引用したコメントで失礼しました。

私もよく「幸せ」について考えています。
私は幸せ者です。それは誰に憚ることもなく真実です。
彼と出会えたこと、刺激的で楽しい時間を共に過ごせたこと。
彼と過ごしているときから、私は幸せ者だと自覚していたのですから、当然といえば当然ですが。

でも、その時間は断ち切られてしまいました。
この無念さはもちろん、今の計り知れないさみしさに通じますが、それ以上に「幸せだったこと」が今の私を支配しているように思います。

巷の書物で、暗闇の中に放り出されたようだとか、長いトンネルに入り込んだという表現に行き当たることがありますが、
私は「暗闇」も「トンネル」もを感じたことはありません。
それは、幸せ者だとういう実感と共に、「彼の最後のときまでの過ごし方」が私に実感させたことがあるからです。だから、今も突然号泣することがあってもなんとか生活しているのでしょう。
ただ、日々のさみしさだけはどうしようもありません。さみしさの方に振り子がふれてしまうと・・・号泣します。

私も「彼との幸せ」以上のことは、もう起こらないでしょうし、望んでもいません。今の唯一の望みは土に還ろうと二人で決めた樹林墓地に私もちゃんと後から行けることです(彼の納骨も出会いの日にと決めているのでまだです。子供がいないので手続を固めておく必要があります)。


佐藤さんの節子さんへの愛の強さに勝手に共感しながら、こうしてコメントさせてもらってます。ありがとうございます。

patti


投稿: patti | 2011/09/19 19:40

patti さん
ありがとうございます。
私自身の幸せさに、改めて気づかせてもらいました。
誰に憚ることもなく真実ですね。
そうですよね。
前回もそうでしたが、言葉の一つ一つが心に沁みます。

今日の挽歌で勝手に引用させてもらいました。
きちんとした返事を書かずにすみません。
感謝しています。

投稿: 佐藤修 | 2011/09/19 20:55

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