■節子への挽歌1472:愛は開目
節子
人を愛したことのある人は、決して人を憎むことはない。
これが私の体験から得た確信の一つです。
よく「愛が憎しみに変わる」ということが言われますが、憎しみに変わるような愛は、私には愛とは思えません。
ある人を愛すると、そこからすべての人や物への愛が広がるものです。
どんな人の中にも、必ず「愛したくなる」ものを見つけられるようになります。
「愛は盲目」ではなく「愛は開目」なのです。
テレビドラマの「砂の器」を見ました。
松本清張の原作に基づくものですが、かなりのアレンジがなされていました。
ドラマそのものとしては、脚本がかなり粗雑で、殺人の動機も説得力がありません。
たぶんこの脚本家は、人を愛したことがない人だと思いました。
自己への愛と他者への愛が整理されていないせいか、原作の持つ深さは感じられませんでした。
しかし,その軽さの故に、原作の持つ重苦しさからは解放されていて、ついつい最後までみてしまったのです。
いずれにしろ、このドラマのテーマは「愛」です。
殺人犯と刑事は幼児期に、それぞれ辛い思いをします。
2人の人生を支えたのは、その辛さの中から育った「愛」でした。
愛が見えるのは、たぶん悲しみや辛さの中からです。
辛さの中で愛を育むか、辛さを忘れるために愛を育てるか。
刑事は前者を選び、犯人は後者を選んで殺人まで犯してしまうのです。
その犯人に、改めて愛に気づかせるのは刑事です。
中途半端な書き方ですので、ドラマを見ていない人は何のことかわからないでしょうね。
すみません。
私は、ドラマの筋立てには違和感を持ちましたが、辛さの中でこそ愛は育つということを感じました。
また愛はそもそも無償なのだということも改めて感じました。
殺された被害者は、加害者を最も愛していたのです。
被害者はたぶん幸せだっただろうな、という思いが、ふっと頭に浮かびました。
この頃、少しずつ「愛」というものがわかってきたような気がします。
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