■節子への挽歌1470:節子への苦言
私より5歳年上のSさんは、毎日、奥さんと自分の食事を作っています。
奥さんが具合が悪くなってからずっとだそうです。
私はそれを最近知りました。
Sさんと知り合ったのは4年ほど前でしょうか。
とても誠実な人で、ある会の世話役をやってくれていますが、みんなのために尽力されています。
一方で、仕事を通して得たこれまでのご自身の体験知を、後世に残しておくために執筆活動にも取り組んでいます。
私とは違い、きちんと資料を調べて書かれているでしょうから、大変だと思います。
取り組まれているテーマは、たぶん今ではSさんでなければ書き残せないでしょう。
昨夜も、そのSさんと一緒だったのですが、Sさんの専門分野に関する私の思いつきの暴論にも誠実に応えてくれます。
そのお人柄に魅かれて、Sさんのためなら何かしなければいけないと思ってしまうほどです。
しかし、とても不謹慎なのですが、私にはSさんがとてもうらやましいのです。
食事をつくって一緒に食べられる伴侶がいるからです。
私は、自分だけのためなら食事づくりはやりたくないですが、節子がもし一緒に食べてくれるのであれば、食事づくりが好きになるでしょう。
食事にかぎりません。
何でもいいのです。
一緒に苦楽を共にする伴侶がいる人がとてもうらやましい。
離婚話をしていようが、別居していようが、喧嘩ばかりしていようが、伴侶はいないよりもいるほうがいい。
そう思います。
考えが古いとか自分勝手だと思われるかもしれませんが、そう思います。
しかし、最近は伴侶の価値に気づかない人が増えてきているように思います。
失ってから気づいても遅いのです。
これは、他人事ではありません。
私の最大の悩みは、娘が一人まだ結婚していないことです。
私たち夫婦の責任ですが、娘たちは結婚志向がずっとありませんでした。
わが家の居心地がよかったからではありません。
私たち夫婦のどこかに欠陥があったからです。
それを思うと、心が痛み、罪悪感に襲われて、時には夜も眠れません。
その辛さを分かち合う節子もいません。
息子であればともかく、娘にとって父親は頼りにはならないのでしょう。
毎日、その娘が食事をつくってくれ、節子の代わりに私の暮らしを世話してくれます。
それを喜んでいいのか、悲しむべきか、それすら判断できませんが、節子がいないために、娘たちの人生も変わってしまったことは間違いありません。
節子は実に「罪づくりの人」です。
時には節子への苦言も呈したいです。
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