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2011/09/03

■節子への挽歌1462:フェイスブックでの命日

節子
4回目の命日を迎えました。
フェイスブックにそのことを書いたら、画家のSさんからこんな投稿がありました。

最近、様々な喪失感について考えています、
奥様をなくされた喪失感は、4年を経ても強く残っているものなのでしようか。

そこから始まったやりとりの一部です。

私:残るというよりも、逆に高まる感じです。そして、喪失感と言うよりも世界が変わってしまいます。つまり世界の大きな部分そのものの喪失です。時間が解決するなどと言う事は全くありません。時間で癒される喪失感などは瑣末な喪失感だとさえ思えます。

S:実は母を8年間の在宅介護の末、在宅で看取りました。母は幸せな最期で思い残すことはないだろうと周りは私を慰めます。しかし、佐藤さんのおっしゃったように、世界の大きな部分を喪失しています。佐藤さんのコメントで、今の状況を受け入れられそうです。

私:愛する人と別れた人に、思い残す事がないなどと言う事は絶対にありません。むしろ思い残す事の多さは、時と共に増えていくのが普通だろうと思います。悲しんでいる人に、軽々にいう言葉ではありません。少なくとも私の場合はそうです。私は今もなお、毎日妻への挽歌を書いていますが、昨日で1461回です。書けば書くほど思い残す事が育っていきます。喪失感は広がります。しかし、喪失は同時に獲得でもあります。大きな世界の視点から見れば、単なる喪失はありえません。喪失したという事実を獲得できるわけです。それを大切にしています。私は仏教徒ですので、なおのことそう感ずるのかもしれません。

S:一つ一つの佐藤さんの言葉が胸に響きます。確かに、単なる喪失ではないようです。 私も母の死から学んだことが沢山ありました。その中で一番大きなのは、死を受け入れる姿を教えてもらえたことです。私も何れ死にます。その時、その経験はいくらか救いになるのではと思っています。そして、生きている時間を大切に使うこと、ささやかな幸せの大切さも学びました。

フェイスブックは公開の場でのやりとりですので、これを読んでくださっている人が時折、コメントをいれてくれます。
そのひとつ、節子に会ったこともある長崎のMさんからのコメントです。
もう奥さんが亡くなられてから4年になりますかね。川本三郎さんの「今も、君を想う」を読むと、2年前に亡くなられた奥さんとの思い出を綴られ、奥さんとの他愛ない対話、散歩、おいしいものを一緒に食べたことなど彼女と暮らした日常生活の楽しい日々を切々と書いて、今のつらい毎日を何とか切り開いていく手記でしたが、佐藤さんも同じおもいでしょうね。映画「東京物語」の笠智衆の姿も目に浮かびます。
フェイスブックは、こうしたやりとりがいろんな形で広がっていきます。
今日は台風のせいもあって、どなたもわが家にはお越しになりませんでしたが、こういうかたちでいろんな人が命日に少しだけ参加してくれました。
韓国の佐々木さんは、ご自宅近くの曹渓寺(チョンゲサ)にお参りに行ってくれました。
みなさん ありがとうございました。

節子
明日からは彼岸5年生ですね。

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コメント

佐藤様

初めてコメントします。
7月13日、6歳年下の夫が旅立ちました。すい臓がんでした。最後まで生きる姿勢を貫いたりっぱな旅立ちでした。翌14日に47歳の誕生日を自宅で迎える予定でしたが、果たせませんでした。
昨年10月に覚悟したときから、藁にもすがるような思いでネットでブログを検索し、たどり着いたのが佐藤さんの「節子への挽歌」です。以来少しずつ読み始め、年が明けてからリアルタイムに追いつきました。
その時の私の心情に深く届く言葉に出会ったとき、その瞬間は安らぎのようなものを感じます。ありがとうございます。

彼を現世で失った喪失感はとても言葉では言い尽くせません。
でも、私も10月から日記というより、心情をノートに書き綴っています。言葉に尽くせなくても書く・・・何かを埋めているのかもしれません。
今回思い切ってコメントさせていただいたのは、最近違和感を持っていたことの解答があったと感じたからです。
喪失感は時間が経っても残るものでしょうかという問いに対して、佐藤さんが
「残るというよりも、逆に高まる感じです。そして、喪失感と言うよりも世界が変わってしまいます。つまり世界の大きな部分そのものの喪失です。時間が解決するなどと言う事は全くありません。時間で癒される喪失感などは瑣末な喪失感だとさえ思えます。」
と答えていたことです。私も、日に日にいろいろな場面の後悔、彼への感謝、いとしさが増すばかりなのです。おそらく精神的ストレスからくる胸痛も治まることがありません。
それまでは時間の経過に救いを求めるしかないと思っていました。でも最近は、周りの人が「今は」まだ無理しないで、とか「そのうち」落ち着いてくるからという言葉をかけてくれるたびに「そうですね」と応える自分にどうしようもない違和感を持ち始めていたのです。
さらに、
「愛する人と別れた人に、思い残す事がないなどと言う事は絶対にありません。むしろ思い残す事の多さは、時と共に増えていくのが普通だろうと思います。悲しんでいる人に、軽々にいう言葉ではありません。少なくとも私の場合はそうです。」
家族、友人たちは私のことを「よく頑張った」「彼もきっと感謝しているよ」と言ってくれます。「悔やんだら彼が心配するよ」と。でも、私は、私の立場では後悔は永遠に残るでしょう。彼にはいつも「頑張ったのはあなたです。ごめんね、守りきれなくて。私と一緒に暮らしてくれてありがとう。一緒にいるときから感謝していたよ。泣くなと言っているかもしれないけれど、幸せだったから、とてもいとおしいから、だからこそ
さみしくて泣くんだよ。」と声をかけています。
そして、
「しかし、喪失は同時に獲得でもあります。大きな世界の視点から見れば、単なる喪失はありえません。喪失したという事実を獲得できるわけです。それを大切にしています。」
佐藤さんの喪失から得るもの、ということに関してコメントさることがありますね。私も「悲しみの大きさ、深さを得た」ことは間違いがありません。これも喪失したという事実があるからです。そして、時間の経過は悲しみや後悔を薄れさせる為にあるのではなく、喪失と共に生きていき、そこから得たものを感じ取っていくことなのだと。

すみません。長くなってしまいました。
佐藤さんの「節子への挽歌」を読んで、いろいろな思いをめぐらせることができることに感謝していることをいつか絶対伝えたいと思っていました。

patti

投稿: patti | 2011/09/04 01:36

patti さん
ありがとうございます。

すぐにお返事を書けずにいましたが、読ませていただいたことだけでもお知らせすべきだと思い書きました。

>言葉に尽くせなくても書く・・・何かを埋めているのかもしれません。

言葉になかなかできないことも多いのですが、書くことで私も救われています。
いつかまたきちんと返事を書かさせてもらいます。
ありがとうございました。

ご自愛くださいますように。

投稿: 佐藤修 | 2011/09/04 11:08

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