■節子への挽歌1481:守護神
節子
台風一過のさわやかな1日になる、と思っていたら、お昼過ぎから雲行きが少し怪しくなってきました。
黒雲が空を覆いだしました。
ところで、ふと思ったのですが、最近、これといった災害にあっていません。
昨日は午前中、以前から歯医者を予約していたので、その前後の日には予定を目いっぱいいれていたのに、21日だけは空けておきました。
大地震のあった3月11日も、午前中に地元で人と会う約束を入れていたため、オフィスには午後から行こうと思っていたのですが、午前中の話し合いがちょっと長引いたので、オフィスに行くのを直前に止めてしまいました。
したがっていずれの日も出かけていなかったので、いわゆる「帰宅難民」になることなく、自宅でテレビを見ていました。
まあ思いつくのはその2回だけなのですが、そういえば最近は事故や災害に会うことがありません。
出かける頻度が少なくなったからなのでしょうが、それでは面白くないので、こう考えることにしました。
節子が守ってくれているのだ、と。
そう考えるとこれからはあまり先のことを考えずに気楽に行動すればいいことになります。
私が出かける時には大事件は起こらないからです。
節子が突然に心変わりしなければの話ですが。
私たちは、仏や神に守られて生きている、と昔の人たちは考えていました。
こうした考えを合理的ではないと言う人もいます。
しかし、仏や神を「自然」と考えれば、それは極めて合理的な考えです。
地球に優しく、とか、自然を守ろう、などという傲慢さは、そこからは生まれてきません。
私たちが、優しく守られているのですから。
その主客転倒を捨てないかぎり、自然は私たちを守ってはくれないでしょう。
これは以前からの私の考えなのですが、昨日、古い映画をDVDで観ていて、気づいたことがあります。
見ていた映画は、リメイク版の「ジャッカル」です。
この映画は、最後の部分だけが好きなのですが。
その映画のキーワードの一つは、「自分の女さえ守れなかった」という言葉です。
それを観ていて、ハッと気づいたのです。
つい先日、同じような言葉を、この挽歌にも書いたからです。
「節子を守ってやれなかった」という考えは、傲慢ではないのか。
守ってもらっていたのは、私だったのではないのか。
私が節子を守れなかったと嘆くのではなく、節子が私を守ってくれたことに、素直に感謝すべきなのではないか。
まあ他の人からしたら、どうでもいいようなことでしょうが、ちょっとそんなことを考えてしまいました。
空はますます暗くなり、今にも雨が降り出しそうです。
今日もまた、節子は私を守ってくれるでしょうから、大丈夫でしょう。
守護神の節子に感謝しなければいけません。
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