■節子への挽歌1486:夫婦って何なのだろうか
節子
最近、日本で起こっている殺人事件の加害者の約半数が「親族」なのだそうです。
家庭は愛情の育まれる場所であると同時に、暴力の嵐が飛び交っている場所でもあるのです。
暴力は、必ずしも憎しみから生まれるわけではありません。
暴力は愛からも生み出されます。
相手に対する深い思いは、時に暴力に転化することもあるのです。
仲が良かった夫婦が、突如、変わってしまうこともあります。
それは、夫婦があまりに閉鎖空間だからなのかもしれません。
そのせいか、最近は開かれた夫婦関係、お互いの生活を尊重しあう同棲関係や逆に別居結婚などが増えているようです。
つまりお互いにそれぞれの自由度を尊重するというわけです。
私たちは、それとは全く正反対でした。
できるだけ相手を拘束し、絡み合う夫婦が、私たちの最初からの文化でした。
私たちの生活は、何から何まで一緒でしたし、隠し立ては皆無でした。
しかし、お互いにそれぞれの思いは自分のそれ以上に尊重してきました。
それが十分できていたかどうかは、節子がいないいま、確認のしようがありませんが、
概して私たちはお互いに拘束しあう夫婦関係に満足したように思います。
節子は間違いなく、私との関係には満足していたはずです。
もちろん私は、節子に完全に満足しています。
だからこそ、節子がいなくなった後、自らの生き方さえ混乱してしまったのですが。
仲違いしたり、憎しみ合ったりしている夫婦を見ると、うらやましくなります。
仲違いも憎しみ合いもできない自分がさびしくなるのです。
もう一度、節子と喧嘩したい。
節子に憎まれたい。
そう思うのです。
しかし、暴力沙汰になってしまっている夫婦を見ると、怒りを感じます。
節子だったらどういうでしょうか。
最近、夫婦って何なのだろうか、と考えさせられることが増えています。
私たちは、ちょっと変わった夫婦だったのかもしれません。
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