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2011年10月

2011/10/31

■前提になっている命題は正しいのか

時代が大きく変わる時には、当然の「常識」も問い質す必要があります。
TPP議論では、みんなが「貿易の自由化」「経済の自由化」は反対ではないといいます。
これまで、貿易の自由化に反対と明確に発言した人に出会っていません。
TPP反対論者も、自由化の流れは必然だという発想のようです。
私は、そこに大きな疑問を感じます。
もちろん私は「自由化」が無条件にいいとは全く思っていません。
第一、無条件に正しい命題などあるはずがありません。

財政政策、経済政策の前提にも、「成長戦略」が置かれているようです。
「新成長戦略」などという無意味な形容詞をつけた言葉もありますが、これもまったくおかしい話です。
その一方で、「持続可能性」などというのですから、私にはなかなか理解できません。
もういい加減に、「成長信仰」から抜け出たほうがいいでしょう。

以前、引用した「経済学の船出」の著者の安冨歩さんは、その本のなかで、「激しい労働と激しい消費との組み合わせの自己増殖が「経済成長」と呼ばれるものの正体」だと書いています。
労働と消費のいずれにも「激しい」という形容詞がついているところがポイントです。
私もこの言葉に同感ですが、そこには「私たちの生活が豊かになる」という要素はありません。
経済成長は、生活を豊かにすることとは無縁の話であることは、みんなそろそろ気づいてもいいようなものですが、学者の権威という「常識」に、これまた惑わされています。
原発問題で学者の実態はかなり明らかになったような気がしますが、まだ一般化はされていません。
学者もまさに「ピンきり」なのです。
それに、そもそも「知」なるものが大きく変わりつつあります。

パラダイムシフトなる言葉も、最近使われるようになってきていますが、相変わらず発想の前提は変わっていないのです。
パラダイムシフトとは、発想の前提を変えることですが、だれも経済のパラダイムなど変えようとしていないのです。

こうした事は、この2つの例に限ったことではありません。
言葉だけの着飾った議論は多いですが、新しい発想をしている人には残念ながら滅多に出会いません。
新しい発想は、必ずその人の生き方に現れますから、少し話せばすぐに分かります。
私は、一人称で語る人に耳を傾けるようにしています。

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■節子への挽歌1520:妄想

最近また、シンクロニシティがよく起こります。
先週、京都で友人と「比叡御膳」という精進料理を食べながら、比叡山で友人の得度式にでた話をしていたら、携帯電話がなりました。
なんとその友人からの、久しぶりの電話でした。
しかも、東京の私のオフィスの前からの電話でした。
こうしたことがよく起こるのです。

昨日、自宅である探し物をしていました。
結局、それは見つからなかったのですが、代わりに思わぬものを見つけました。
20年ほど前にNHKテレビで放映された「チベット死者の書」の録画テープです。
実はこれもあることで、数日前に思い出して、その記録の本を再読したのですが、テレビ番組も見たいなと思っていた矢先でした。
まさか自分で録画していたとは思ってもいませんでしたし、テープが残っているとも思っていませんでした。
早速、昨夜、そのテープを見ました。
先日、読んだ本とほぼ同じ内容でした。
しかし、映像で見るとまた印象は違います。
死者の姿やホスピスのやりとりが、生々しく伝わってきました。

そういえば、先週もなぜか奈良を歩いてきました。
奈良では死者には会いませんでしたが、たくさんの仏に会ってきました。
もしかしたら、あれも仏たちが私を呼んでくれていたのかもしれません。
私は、仏たちに会って元気になるつもりでしたが、記憶に残っているのは、仏たちの悲鳴です。
そして、昨夜、20年前のテレビ番組を見ながら、先週奈良で会った阿修羅や薬師や月光菩薩たちが安置されていたのは、仏たちのホスピスだったのではないかという気がしてきました。
妄想としかいえませんが。

しかし妄想はさらに広がります。
私はいま、自分では気づいていなのに、ホスピスにいるのではないかという感覚におそわれました。
さらにもしかしたら、バルドにいるのではないか。
彼岸に旅立ったのは、節子ではなく私なのではないかという感覚です。
なぜか私は、死に対する恐れの感覚は皆無なのですが、そう考えるとその理由もわかります。
こうして妄想は際限もなく広がりました。

風邪が長引いて、頭が朦朧としているためか、そんな妄想に昨夜はうなされていました。
そして、彼岸も此岸もそう違いはないのだろうなと思えるようになりました。
私の意識も、この身体から早く自由になりたいです。
いや、ほんとうはもう自由になっていて、気がついていないのは私だけなのかもしれません。

まだどうも妄想の世界から抜けられていないようです。
今日も1日、休むことにします。

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2011/10/30

■節子への挽歌1519:悲しみと幸せ

今日は手賀沼のエコマラソンです。
わが家の下の道がコースになっています。
節子がいた頃は沿道まで応援に行っていました。
節子は応援の旗までつくったことがあります。
そんなことを思いながら、リビングルームから走っている人たちを見ていました。
今年も、たぶん私の知り合いも走っていたでしょう。
もしかしたら節子の主治医だったI医師も走っていたかもしれません。

節子がいなくなっても、世間の動きは変わりません。
時期が来れば地域の行事も、以前と同じように行われます。
そうした大きな流れの中で、私たちはそれぞれの役割を果たしています。
大惨事の場合は、行事を自粛したり中止したりすることはありますが、よほどの場合でなければ、何事もなかったように時間は流れていきます。
言い方があまりよくないかもしれませんが、住民の死もまた地域社会にとっては「一つの行事」なのかもしれません。
節子がいなくなった直後は、そうした自然の流れにさえ、ついていけなかった時期がありますが、いまはそうした自然の流れが逆に支えになっています。
そして、個人の生命や暮らしは、大きな生命の流れの中の一部なのだと実感できるのです。

しかし、伴侶を失うとその風景はまったく違うものになります。
その変化の度合いが、伴侶との関係を物語っているのかもしれません。
関係が深いほど、変化が大きいことは言うまでもありません。

人との別れの悲しさを味わいたくなければ、人を愛さなければいいでしょう。
愛する幸せと別れる悲しみは、たぶん比例しているでしょう。
結局はみんな平等なのです。
そう思えば、いまの悲しみは幸せの証でもあるのですが、そう思えるようになるにはやはり時間が必要でした。
私がそう思えるようになったのは、つい最近です。
そう思えれば、悲しみもまた幸せになっていきます。

愛する人を失っても、凛として生きる人もいるでしょうが、私にはそれができません。
みんなから呆れられるほどに、なよなよと生きています。
しかし、悲しみとか幸せと言うものは、たぶんそうした中にあるのだろうと思います。
節子と一緒の幸せと悲しみと一緒の幸せと、どちらがいいのか。
答えはわかりきってはいますが、あえて答を出さずに、問題のまま残しておこうと思います。

しかしようやくエコマラソンのランナーたちを素直な気持ちで見送れるようになりました。
ひがみながら「大きないのち」「大きなながれ」から逸脱しかけていた私も、少しずつまたもとの場所に戻りつつあるような気がします。
節子が元気だった頃と同じように、また素直に生きられればと思っています。

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■TPP論議を聞きながらラスキンを思い出しました

TPPの報道や議論を聞いていていつも思うのは、ほとんどすべてが「経済の土俵」でしか語られていないことです。
しかも、「お金の経済」の話です。
「開国」とはお金の世界での共通のルールを用意することだとみんな思っているようです。
私にはとんでもない話だと思えてなりません。
それは「文化」や「こころ」の問題です。
経済の活性化と生活の活性化とは、違います。

経済は「お金」の世界だろうと思われるかもしれません。
しかしそれは近代、それも近代後半の話かもしれません。
19世紀に、当時世界を覆いだしていた「経済学」の流れに異議申し立てしたのがラスキンです。
ラスキンの考える経済学は、私流の解釈では、「お金の経済」ではなく「愛の経済」です。

ラスキンは、当時主流となりつつあった経済学(ポリティカル・エコノミ-)を「商利経済学(マーカンタイル・エコノミー)」と批判し、社会を一つの家族とみなした、「愛」を基軸に置いた経済学を提唱しました。
価値論のない「手段的な経済術」ではなく、しっかりした「価値」を基本に置いた「目的的な経済学」といっていいでしょう。
ラスキンは、「価値とは生のことである」と言っています。
まさに「経世済民」の経済学です。
前者は権力とつながった金持ちになるための術ですから、その結果は格差社会ですが、ラスキンの目指すのは格差などのない「穏やかな社会」です。
私が経済を考える時の基軸は、ラスキンとイリイチ(サブシステンス経済)です。

ラスキンは、こう語っています。
「生なくしては富は存在しない。
生というのは、そのなかに愛の力、歓喜の力、讃美のカすべてを包含するものである。」
とても心に響きます。

当時の経済学(いまもそうですが)が前提に置いたのは「経済的人間」、ホモ・エコノミクスです。
そのもとで、「利己的動機」が公認され、それが「見えざる手」によって調和され、社会の冨は豊かになるとしたのです。
それが可能になるのは、根底に「愛」と言う人間性があるからだと私は思いますが(アダム・スミスもそう言っています)、その後の経済学を方向づける「経済的人間」からは「愛」は排除されていきます。
その結果、仕事も苦役になり、自然は資源でしかなくなります。
しかし、ラスキンの「この最後の者にも」や「「ごまとゆり」を読むと、そこにはそうした経済とは違った、「愛の経済」を感じられます。

TPPのことを書こうと思いながら、ラスキンの話になってしまいました。
ラスキンの話はまたいつか書くことにしますが、「お金の経済」のほかにも「愛の経済学」があることを知ってほしかったのです。
ちなみに、イリイチのいうサブシステンス経済においては、「愛」が重要な意味を持っていると思います。
お金持ちはともかく、多くの庶民は決してパンだけで生きているのではないのです。
また話がずれそうです。

TPPは決して産業や貿易だけの話ではありません。
文化や生活の話なのです。
前に、きこりに一本の枝をあげたために、山の樹木がすべて切られてしまったイソップの寓話の話を書きましたが、文化の崩壊は実に脆いものなのです。
ブータンもたぶん間もなく全く異質な国家になるでしょう。
開国の仕方を間違ってはいけません。

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■節子への挽歌1518:老後の不在

節子
お近くのTさんご夫妻が近くのマンションに転居されました。
同世代だったので、自治会の活動などではご一緒させてもらっていましたが、節子がいたらもっと親密なお付き合いが出来ていたでしょう。

息子さんたちがもう独立されているので、最近は夫婦お2人の生活でした。
マンションのほうが暮らしやすいとお考えになったようです。
ご主人は、2階建てよりも平面で暮らせるマンションのほうが楽ですからと言っていました。
旅行などで長期間留守にする場合も、マンションのほうがいいでしょうし。

うらやましい気がしました。
私たちも、マンションでの老夫婦の暮らしを考えていたからです。
山と海が見えるマンションです。
しかし、そうした「老夫婦の暮らし」は、私たちには訪れませんでした。
私たちには、「老後」はなかったのです。
街中で老夫婦を見ると、正直、うらやましいです。
私にも、そして節子にも、体験できなかったことですから。

夫婦が一番ゆっくりできる時期はいつでしょうか。
おそらく子どもたちからも解放されて、何かにわずらわされることなく、2人だけで気ままに過ごす、老夫婦としての日常なのではないかと思います。
時にはそれぞれに、時には2人一緒に、気の向くままに過ごす暮らしです。
私も、節子も、その夫婦最高の歓びを体験できなかったのかもしれません。

しかし欲をいうのはやめましょう。
私たちは老夫婦としてではありませんでしたが、十分に2人の暮らしを楽しんだようにも思えるからです。
47歳で会社を辞めてからは、一緒の時間が多かったです。
今にして思えば、会社を早く辞めてよかったです。
そうでなければ、節子との関係は「ほんもの」にならなかったかもしれないからです。
私が会社を辞めてからの私たちは、いつも一緒でしたから、神様が嫉妬したのかもしれません。
そう思われても仕方がないくらい、私たちは愛し合っていました。
だからといって、老夫婦の暮らしを私たちから奪ってはほしくありませんでした。
まさにOh, my God!です。

いまごろ、Tさんたちは、新しいマンションで、お2人のゆったりした朝食を楽しんでいることでしょう。
私たちなら、間違いなくそうしています。
そんな時の節子の姿が、目に浮かびます。

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2011/10/29

■節子への挽歌1517:またつらい冬がきます

節子
東日本大震災からもう7か月以上経ちましたが、まだまだつらい話がたくさん入ってきます。
寒い冬を向かえ、被災されたみなさんにはまたつらい時期がやってきました。
残された者にとって、寒い季節は冷えた心をさらに凍えさせてしまいます。
節子を送ってもう5回目の冬ですが、いまだに冬を思うだけで心身が冷える気がします。
私には、幸いなことに一緒に暮らしている娘がいますから、一人になることはあまりありません。
もし私一人だったら、と思うと、生きる勇気を持てないかもしれないと思うこともあります。
愛する家族を失って、お独りでこの冬を過ごさなければいけない方がいると思っただけで、心が痛みます。
その心の痛みは、決して他人事ではなく、自分の事のように私の心身を凍えさせます。
不思議なほどの一体感、共体験感覚があるのです。
だから被災者の冬の報道は、正直、恐くて見ることができません。

人は、一人で生まれ、一人で死ぬ、という人もいます。
私はそうは思っていません。
生まれる時もたくさんの人に支えられたように、死ぬ時もたくさんの人につつまれています。
彼岸への旅は、一人かもしれませんが、それでもたくさんの人が見守ってくれています。
そして、いうまでもなく、此岸で生きている時も、たくさんの人と一緒です。
人は、人と無縁で生きることなどできません。
そして死んでもなお、一人になれることはないでしょう。

しかし、どんなにたくさんの人たちと一緒であろうと、いつも隣にいた人がいないことのつらさは消えません。
いるのが当然だった人がいないことには、実はなかなか慣れません。
慣れないからこそ、現実感が持てずに、耐えられているということもあるのですが、それでも時に心身が震えるほどに悲しさが湧き上がることもあります。
同じ境遇の人の姿を見た日の、夜です。
そんな時には、もう節子には会えないのだ、などと思ってしまいます。
普通に考えると、節子にはもう会えないのでしょうが、そんな思いは私の心身の中にはどこにもありません。
どこかで会えると確信しているのです。
おそらく、愛する人とわかれた人は、みんなそう思っているのではないかと思います。
そうでなければ、生きつづけられないように思います。

夜になったら、戻ってくるのではないか。
冬になったら、戻ってくるのではないか。
いつも心身のどこかで、そう考えているような気がします。
だから、冬が、そして夜がつらいのです。

夜、突然、目が覚めます。
となりを無意識に手探りします。
そして、早く夜が明けてほしいと思うことも少なくありません。

夜も、冬も、きらいです。
きっと彼岸には、夜も冬もないはずです。

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2011/10/28

■節子への挽歌1516:位牌

大震災の後、被災地で移動喫茶店活動を始めた、CAFÉ de Monkの金田住職のお話を聞きました。
時評編にも書きましたので、併せて読んでもらえればうれしいです。

その中に、

位牌のための死んだ人もいる。
位牌がないと前に進めない人もいる。
というお話がありました。
「位牌」とは何なのか、改めてそう思いました。

位牌を取りに自宅の戻り、そのために津波の犠牲になった人がいます。
福島原発の避難地域の人たちも一時帰宅して持ってきたなかにたぶん必ずと言っていいほど「位牌」があったでしょう。
私ももしわが家が火事になったら、位牌を優先して持ち出すでしょう。
なぜ位牌はそれほどに大切なのでしょうか。
おそらくそれは「理屈」を超えたことなのでしょう。
理由などなく、ただただそれが「位牌」だからです。
位牌がないと前に進めない、ということも私自身の体験からもわかるような気がします。

私にとって節子の「位牌」は2つの意味があります。
一つは、彼岸にいる節子との接点です。
彼岸と此岸にわかれてはいても、私たちはつながっていることを可視化してくれるのが位牌です。
節子の位牌を見ればその向こうに節子が、両親の位牌を見ればその向こうに両親が感じられます。
位牌は、「つながり」の象徴なのです。

しかし同時に、位牌は「別れ」の象徴でもあります。
此岸の節子への未練を断ち切り、自分を納得させるものでもあります。
位牌を見ると、ああ節子はもういないのだと思えます。
写真を見ていると妄念が起きてきますが、いはいはそれを遮断してくれるのです。

そうした経験をしていましたから、金田さんのこの言葉はとても心に響きました。
位牌は、死者のためにあると共に、残された生者のためにもあるのです。

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■「あの時のことを忘れないでいてほしい」

昨日、東日本大震災後、いち早く被災地で移動喫茶店CAFÉ de Monkを開店して被災者と向き合ってきた宮城県の通大寺住職の金田さんのお話をお聴きしました。
金田さんの活動にも関わっている医療法人の岡部さんも話をしてくださいました。
とても共感できる話ばかりでした。

断片的ですが、5つだけ書き残させてもらうことにしました。
いつかたぶん金田さんのお話はどこかでもう少し詳しく読める機会があるでしょうから。

金田さんのメッセージは「あの時のことを忘れないでいてほしい」ということでした。
「あの時」とは震災直後の時期の私たちの生き方です。
被災された人たちは、心といのちとは一つになって、我を忘れて生きていた。
その被災地の様子を知った人たちも、被災者のみなさんと心といのちとは一つにしていた。
そういう意味だと思います。
金田さんは、しかし、時間がたつにつれてみんなそれを忘れて、また元の生活に戻ってしまう。
そうなってはほしくないというのです。

岡部さんは、合理的なものや人が作った建物や制度などで、自然が見えなくなってきていたが、その目隠しが大震災で壊されたと話されました。
そして「合理的思考」への疑問を提示されました。
全く同感です。
しかし被災地の復興が「合理的思考」で進められているようで、私もそれがとても気になっています。

3つ目は誤解されないように注意して書かなければいけませんが、文責は私にあることを予めお断りしておきます。
被災地の子どもたちは、大変な状況に投げ出されても、健気にがんばっている。
たしかに失ったものは大きいが、しかし得たもの、得つつあるものも大きい。
子どもたちを見ていると、そこに私たちの未来を感ずるというのです。
そしてこういう趣旨のことを付け加えました。
子どもたちを支援しようとたくさんの人たちがきてくれるが、
子どもたちは元気に走り回っている、この苦しみの中から得ていくものも多い。
余計なことをせずに、ほっといてくれともいいたい、と。
さらにこう付け加えました。
もしなにかやってもらえるのであれば、自分の地域の子どもたちに「いのちの教育」をしてほしい、と。
心に刺さりました。

4つ目も辛らつでした。
絆などと気安く言ってほしくないというのです。
絆の世界がどんなに大変なものか知っているのか、そんなに簡単にできると思うのか、というのです。
絆を壊してきたくせに、何をいまさら絆なんだというわけです。
私も昨今の「絆の合唱」にはうんざりしていましたので、拍手したい気分でした。
いままであまり大きな声ではいえなかったのですが、少し安堵しました。

最後は、現地の人たちの気持ちの中には、「あまりあおり立てないでくれ」という気分があるように思うという指摘でした。
これも考えさせられる言葉でした。

言葉を切り取っての紹介ですので、真意が伝わらない面もあると思いますが、私の心に響いた5点を紹介させてもらいました。

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2011/10/26

■節子への挽歌1515:メメント・ヴィタ

節子
メメント・モリよりもメメント・ヴィタの発想のほうが良いということを昨日書きましたが、
ラテン語では、「生きる」という言葉の動詞の完了形が「死」を意味するそうです。
死とは生をパーフェクトなものにするという認識です。
もしそうなら「死」は「生」の一部です。
つまり、「死」が「生」の目的ではありません。
「死」が「生」の目的であれば、「生」は「死」の一部ということになるからです。

節子が進行性の胃がんだと分かった時、知人の医師は「死に方」の問題ですとアドバイスしてくれましたが、それには賛同しかねます。
仮に医学はそうであっても、医療はそうであってはいけません。
医師がいうべき言葉ではないはずです。

人は死ぬために生きているわけではありません。
あえて言えば、生きるために死ぬのです。
最後までどう生き抜くか、そう考えるのが素直な発想です。
「ホスピス」は行ききるための施設といっていいかと思いますが、そうであればそこにはその思想がなければいけません。

メメント・モリは、盛者必衰や日々を大事に生きることを諭す言葉とも言われます。
どんな人にも必ず死はやってくる。
明日、死ぬかもしれないのだから、毎日を大事に生きなければいけない。
そういう意味も含まれています。
あるいは仏教的な諸行無常や色即是色の哲学も含意されているでしょう。
しかしそれらはすべて「生き方」の問題であって、「死に方」の問題ではありません。

メメント・モリが、直接には「自殺」を想起させることはないでしょうが、死こそ生なのだという深い含意は簡単には表象しません。
だとしたらやはり、メメント・ヴィタです。
生の輝きを思い起こすことこそが、生を完結させます。
死を超えた節子は今なお、私の心身の中では躍動する生を維持しています。
生きている節子を思うだけで、私の心身は元気になります。
メメント・モリからメメント・ヴィタへ。
それだけで、もしかした、自らも、そして死者も、救われるかもしれません。
死者は彼岸で生きているのですから。

死は生の、、ほんの一瞬の一部でしかない。
そう思えるように、ようやく最近なってきました。

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2011/10/25

■世界が見えにくくなってしまいました

最近、時評が書けません。
書こうと思うことが起きないのです。
私の意欲のせいかもしれませんが、社会そのものが見えにくくなっているような気もします。
見えないまま、言葉だけが横行しています。
こうした時には、見えないところで大きな地殻変動が始まっているのかもしれません。

楽観的な予想では、新しい民主主義の始まりです。
中国の体制は間もなく瓦解し、アメリカは弱体化し、国際政治のバランスは崩れ、混乱の中から新しい体制が芽生えるでしょう。
悲観的な予想では、金融主義の深まりです。
成長戦略という20世紀パラダイムが最後のあがきをし、歴史は終焉するかもしれません。
いずれになるかは、私はおそらく確認できないでしょうが、最近の世界の動きをみるかぎり、私は悲観的な予感を強くしています。
まあそれが人類の選択であれば仕方がありません。
原発コストの見直しが今日発表されましたが、いまもって現実を誠実に見ようとしていない科学者や産業人の多いことには驚きます。
政治家は原発の途上国への拡散に動き出しています。
何も変わっていないのです。

1960年代に、歴史の大きな分岐点がありましたが、あれは予兆だったのだと思い続けていました。
しかし、予兆を越える変化の兆しはなかなか見えてきません。
9.11で何も変わらなかったように、3.11でもやはり何も変わらなかったのでしょうか。
そうは思いたくないのですが、元気が出る話は最近またぴたっと入ってこなくなりました。

先週、奈良を歩いてきましたが、そこでもらえるはずの元気をあまりもらえずに戻ってきてしまいました。
その上、風邪までひいてしまいました。
人類の風邪がうつってしまったのでしょうか。

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■節子への挽歌1514:メメント・モリ

節子
世界の各地で自然災害による死者が出ています。
タイでは洪水で、トルコでは地震で、多くの死者が出ています。
自然災害だけでなく、事故による死亡報道も毎日たくさん報道されています。
今この瞬間にも、予期せぬ死を迎えている人がどこかにいるでしょう。
世界の人口と平均寿命から計算すると、1年に1億人が、1秒に3人が死を向かえていることになります。
死は、私たちとは隣り合わせなのです。
しかし多くの人は、死のことを考えるのを避けているといわれています。
これは「近代」の特徴かもしれません。
近代は、自然を克服しようとした流れの中で、死をも視野から追い出したのです。

1960年代にアメリカで コンシャス・ダイイング(意識して死を迎えよう)という主張が広がり、ダイイング・プロジェクトなるものが話題になったことがあります。
1960年代のアメリカにはさまざまな新しい風が起こり、歴史の大きな岐路にあったと思いますが、残念ながらそれは本流にはならず、サブカルチャーで終わりました。
私はそうした動きから影響を受けたと思いますが、ダイイング・プロジェクトには違和感がありました。

メメント・モリという言葉があります。
最近はかなり使われるようになってきました。
ラテン語で「自分が(いつか)必ず死ぬことを忘れるな」という意味の警句です。
もっとも最近は、「死を想え」という意味が強調されています。
藤原新也さんが同名の本を出版して話題になったのが1983年です。
その本には、死を語る衝撃的な写真が収められているそうですが、この種の本は、私はいまだに手に取ることができません。

ダイイング・プロジェクトでも、実際の死体を見ながら、それが朽ちていくのを想像するという瞑想プログラムがあると聞いていますが、私にはできないことです。
スイスのチューリッヒ郊外の墓地に連れて行ってもらった時の衝撃は今でも忘れられませんが、私にはメメント・モリは受け付けられないのです。

前に、エラン・ヴィタール(「生の躍動」)のことを書きました
私はやはり、「生」を基本に生きたいと思います。
メメント・モリではなく、メメント・ヴィタ(「生を想え」)が私の指針です。
生きているのに死んだような生き方をしたくはありませんし、
心でもなお生きていることを信じたいと思うのです。

節子は今もなお、私と共に生きていますので。
死は、生の一つの節目でしかないと思っています。
主客転倒してはいけません。
それは教団宗教や生政治や近代医療の罠でしかありません。

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2011/10/24

■節子への挽歌1513:偲ぶ会

節子
黒岩さんが急逝して間もなく1年です。
湯島の集まりで、今でも時々、黒岩さんの話題は出ます。
黒岩さんが元気だったら、今頃きっとまた新しい著作を発表していた頃でしょう。

語り継ぐ黒岩比佐子の会」の案内が届きました。
どうしようか、ちょっと迷っていました。
そしてやはり欠席の返事を出しました。

人の死を偲んで語り合うことに、私は違和感があります。
時々、そういう会の誘いは来ますが、すべて不参加です。
参加の呼びかけの返事に、欠席の理由を書いたことはありませんが、私にはそういう場が理解できないからです。
そのため、せっかく企画してくれた人の気分を害してしまったこともあるかも知れません。
冷淡だなと思われてしまったかもしれません。
妻への挽歌をずっと書き続けているのに、ほかの人の死を偲ぶことはしないのかと思われても仕方がありません。
しかし、集まって何を語るのでしょうか。
私には思うことは山のようにあっても、語るべきことは何一つありません。
たとえそれが節子であっても、です。
死はよく知り合った人たち同士でこそ語られるべきことだと思っています。
そしてそこに彼岸とのつながりがないと、私には落ち着けません。
ただ黙祷するだけの場なら、私にも参加できるかもしれませんが。

だからといって「偲ぶ会」に反対なのではありません。
そうすることによって安堵する人もいるでしょうし、語り継ぐことがその人の「生命」を蘇らすこともあるでしょう。
あるいは、そうした場で、自らの、あるいは大切な人の、死を考えることができるかもしれません。
私がいつも不参加なのは、そういう場で「語るべきこと」がないばかりか、「聴くべきこと」もないからです。

今回は「偲ぶ会」ではなく「語り継ぐ会」です。
ですからちょっと迷いました。
「音のない記憶」でデビューする前から、黒岩さんは湯島のサロンの常連でしたし、節子と一緒に黒岩さんの熱い思いを聴いたこともあります。
節子が逝ってしまった後、黒岩さんはわが家に献花にも来てくれました。
語ろうと思えば、語れることはあるのかもしれません。
しかし、そうした場に行ったら、間違いなく後悔すると思うのです。

なぜでしょうか。
理由は自分でもわからないのですが、そうした場に参加した時の自分の姿がまったく想像できないのです。
ですから、黒岩さんの会も欠席することにしました。
黒岩さんは、たぶん気分を害さないでしょう。
私の性格を、それなりに知ってくださっていましたから。

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■節子への挽歌1512:罪つくりの女

節子
奈良公園や法隆寺は人であふれていましたが、薬師寺や唐招提寺のある西の京は修学旅行もあまりいなくて静かでした。
それに場所の雰囲気も、あまり変わっていませんでした。
特に唐招提寺の周辺は前に節子と歩いた時と、大きくは変わっていないでしょう。
山門前のお蕎麦屋さんもまだ開いていました。
お客さんは一人もいませんでしたが、当時、お店でおそばを出していたと思われる女性が、おばあさんになってお店番をしていました。
節子がいたらきっと何か声をかけたでしょう。

今回、奈良を歩いて感じたのは、風景が大きく変わってきていることです。
節子と歩いた時のことを思い出せたのは、薬師寺から唐招提寺への道と猿沢の池だけでした。
風景が変わったせいか、節子がいなくなったせいか、わかりませんが、ほとんど場所の雰囲気が違うのです。
風景は自分の気持ちによって大きく変わって見えるものだと、改めて思いました。
節子ともしも一緒だったら、薬師寺から受けた印象も違っていたかもしれません。

これはなにも寺院だけの話ではありません。
あまり意識はしていませんでしたが、私の日常の風景もたぶん大きく変わっているのでしょう。
そして違った風景の中で暮らしていると、それがまた逆に私の意識を変えていく。
それはまた節子との関係においてもいえる話です。
節子が元気だったころも、私と節子の関係は変化していましたが、いなくなってからも、その関係性は変化しているわけです。
関係は深まっているのか、薄れてきているのか。
奇妙な話ですが、たぶん深まっているでしょう。
それぞれの時間が止まってしまっているのに、関係だけは深まって成長しているわけです。

節子がいた時には気づかなかったことに気づくこともあります。
欠点も長所も、新たな気づきがあるのです。
気づいたからといって、いまさらどうしようもないのですが。

別れが愛を深めることもあるようです。
元気だった頃に、なぜもっと愛さなかったのか、時々、そう思うこともあります。
節子は罪つくりの女です。

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2011/10/23

■節子への挽歌1511:風邪

節子
風邪をひきました。
急な寒さにやられましたが、昨日、2つの集まりのはしごをしてしまったのが敗因で、ちょっと悪化させてしまいました。
その上、なぜか寝不足です。
節子がいないせいか(いても同じだと思いますが)、健康管理が苦手なのです。
しかし今週は後半ちょっとまたいろいろと集まりがあるので、昨日からちゃんと薬を飲んで、大正製薬のゼナまで飲んで、どこにも出ずに在宅で養生しています。

そんなわけで、どうもパソコンに向かう気になれず、挽歌も書き留まっています。
あまり溜まると書けなくなるので、今日は風邪の報告を持って挽歌に代えます。
彼岸では風邪にひくことなどないのでしょうね。
肉体があるとわずらわしいものです。

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2011/10/21

■「日本からお金が無くなったら、何が残ると思いますか」

野田首相には失望しました。
この人の心の中には、やはり何もないのでしょうか。

昨夜のNHKニュースウォッチ9は、野田首相をゲストにして、視聴者からの質問に答えるという企画でした。
期待しました。
最初に届いたメールは、NHKのやらせを感じさせるほどの質問でした。
福岡の10代の女性からだそうです。
「日本からお金が無くなったら、何が残ると思いますか」。
素晴らしい質問で、これは期待できると思いました。
しかもその質問に、野田産は動ずることなく、淡々と語りました。
野田さんの答えは、「底力」でした。
お金がなくなっても回復する底力がある、と答えたのです。
私の考えからすれば、質問の意味を全く理解していません。
がっかりして、見るのをやめました。
こんな人の答など聞いても意味はないでしょう。

私の考えすぎかもしれませんが、質問の意味は、何が大切なのか、です。
そして日本のアイデンティティを問うているように思います。
仮にそうでないとしても、国家のリーダーはそれをこそ語るべきで、そこから希望やビジョンが生まれます。
お金にしか興味のない野田首相の世界観がよくわかります。
TPPに参加したがり、増税を目指すのは当然なのでしょう。
彼には理想もビジョンもないのでしょうか。
あまりにがっかりして、この文章を書く気さえ起こりませんでしたが、あまり話題になっていないようなので書き留めておくことにしました。

ますます政治報道を見る気力が萎えています。
見ると必ず心が乱れます。
3日ほど旅行していて、テレビと新聞にふれなかったため少し元気になっていたのですが、
帰宅してテレビをつけた途端に、不快さが戻ってきました。
困ったものです。

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■節子への挽歌1510:元気になられてよかったとまだ言われます

茨城の高須さんのお母さんから新米が送られてきました。
いつもは息子さんのほうにお礼の電話をするのですが、今日はなんとなくお母さんのほうに電話をしました。
私と同世代ですが、私よりも前に伴侶を見送っています。

お元気そうな声でしたが、もっと驚いたのは、お元気になられたのですね、という言葉でした。
それで気づいたのですが、私が電話するのは、もしかしたら初めてかもしれません。
節子がいた頃は、節子が電話していましたし、節子がいなくなってからは電話した記憶がありません。
そして息子さんから、私がどんな状況になっていたか聞いていたのかもしれません。
しばらくはダメでしたが、最近は元気に仕事もしていますと言ったら、弾むような声で、私もそうだったからわかりますよ、でも元気になられてよかった、と繰り返し言ってくれました。
気にしてくれていたのが伝わってきました。
もっと早くに電話すればよかったです。

高須のご両親もとても仲のよい夫婦でした。
ご夫婦で農業に取り組んでいましたが、信頼しあっている関係がよくわかりました。
おそらく私たちと同じ世代での別れだったと思います。
私たちは葬儀に行ったはずですが、あまり記憶がありません。
なんとなく奥さんにお悔やみを言った記憶だけはあるのですが、告別式にいけなかったのでしょうか。
そうした不義理の多さに、最近は過去を思い出すのがおそろしいです。

高須さんとは不思議な縁で、仲人をさせてもらったのが始まりでした。
高須さんは、友人と一緒に私のオフィスにやってきました。
その友人の人生相談に、私が少しだけ乗ったのです。
私にはいずれも初対面でした。
その時は高須さんとはあまり話すこともなく、彼は友人と私の話し合いを横で聴いていたくらいです。
ところがそれからしばらくして、高須さんから電話がありました。
仲人を頼みたいというのです。
一度しか会っていないので、返事に窮しましたが、どうしてもと言うので、ともかく会うことにしました。
そして気づいてみたら仲人を約束していたのです。
これも「縁」のひとつです。
縁の始まりは、いつも不思議です。

節子が元気だったら、高須さんのお母さんとは仲良しになったかもしれません。
高須さんに限らず、そう思うことがしばしばあります。
どう考えても、神様は順番を間違えました。
神様に会ったら、思い切り苦情を言うつもりです。

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■さびしそうな仏たち

2日間、奈良を歩いてきました。
たくさんの仏たちに会ってきましたが、私が会いたかった仏たちの半分は地震や火事から守るための新しい空間に移っていました。
興福寺の阿修羅、三月堂の月光菩薩、法隆寺の百済観音、中宮寺の弥勒菩薩、みんな本来の場所にではなく、安全なところに展示されていました。
仏の気持ちになればわかりますが、とてもさびしい話です。
もはや昔のようなオーラは感じられず、ただ単に展示品でしかないような気がして、興ざめでした。
こうした動きは最近また一段と進んでいるようですが、民と共にあった仏たちも、いまや美術鑑賞品や歴史遺産としての「物」になってしまってきているのでしょう。

奈良に行く前に、京都の東寺に寄りました。
先日、空海展での立体曼荼羅を体験していましたが、それとの違いを実感したかったからです。
幸いにすべての仏たちが戻ってきていましたが、やはりそこから生み出される時間を超えた空気は、やさしさが感じられました。
仏たちも生き生きしていたように思います。
そう思うのは、懐古趣味なのかもしれませんが、仏たちは安置されていた場所とのつながりがあるはずです。

火事があったら燃え尽きてしまう。
大地震には崩れ去ってしまう。
それが仏たちの本望のように思いますが、そもそも「国宝」とか「重要文化財」などと決めてしまうことの意味はなんなのでしょうか。
これまではなんの疑問も抱いてきませんでしたが、考えてみるとそこから間違っているのかもしれません。

薬師寺の白鳳伽藍はまだ工事をしていました。
私の現世中には、平安な薬師寺はもう体験できないようです。
寺社とはいったい何なのか、いろいろと考えさせられる旅でした。


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■節子への挽歌1509:ナーランダの月

父娘旅行の2日目は、斑鳩と西の京です。
ゆっくりと回る予定で、朝早くホテルを出ました。
斑鳩の法隆寺に着いたのは8時40分、まだ始まったばかりで、門前ではお寺の人たちが掃除をしていました。
修学旅行生やツアー客もまだ来ておらず、東伽藍はゆっくりと見る事ができました。
東伽藍から出ると大宝蔵院なるものが出来ていました。
百済観音がおさめられていましたが、やはり展示品になっているような気がしました。
だんだん滅入ってきましたが、夢殿から中宮寺に回って、驚きました。
中宮寺は完全な展示会場になっていました。
受付の人が素朴な人だったのが救いでしたが。

もう少しゆっくりと思っていた法隆寺もただただ拝観しただけで、西の京に向かいました。
薬師寺は西塔ができてから節子と訪ねましたが、なにかおかしな空間になってしまった失望感だけが記憶に残っています。
少しは落ち着いているかなと思っていたら、今度は東塔の補修工事が始まっていました。
白鳳伽藍はまさに工事現場でした。
弥勒の世界です。いまの救いはありません。
そういえば、薬師寺の講堂には弥勒が安置されています。
弥勒は未来仏です。
憧れだった薬師三尊もオーラはなく、小さくなっていました。
玄奘三蔵院というのも出来ており、平山郁夫画伯の壁画が公開されていました。
私は平山さんの絵は苦手ですが、最後に1枚、気になる絵がありました。
ナーランダの月です。
Moon

ペルシアやゾロアスターを感じさせる不思議な絵で引き込まれてしまいました。
平山さんの絵はあまりに乾いているので私には伝わってくるものがないのですが、この絵には彼岸に通ずるものを感じました。
そのうちに、そこに一人の僧が描かれるでもなく、描かれるでもなく、ぼんやりと浮かび上がってくるのに気づきました。
気になって、係の人に訊いてみました。
そこになんとなく描かれているのは高田好胤さんだそうです。

こういう話です。
白鳳伽藍を写経勧進による浄財で再建しだしたのは管主になった高田師ですが、彼は西域を一緒に歩いた平山さんに壁画を頼んだのだそうです。
しかし、その壁画が完成し、魂を入れる直前に高田さんは亡くなられてしまいます。
平山さんは、ほとんど完成していた壁画を見てほしいと高田さんに勧めたそうですが、仏に見せる前に自分が見るわけにはいかないと高田さんは言われたそうです。
そして残念ながら、高田さんは生前に壁画を見る機会を得ることなく旅立ったのです。
高田さんにとっては、現世など一瞬の間であり急ぐこともなかったのでしょうが、平山さんは、壁画の最後のナーランダの月(ナーランダの学校は三蔵法師が行き着いて学んだところです)の中に高田師を描き、絵の中から壁画を見てもらうようにしたのだそうです。
お2人の関係が伝わってきて、私は初めて、平山郁夫さんの絵に興味を感じました。
節子は、私と違って、平山さんの絵が好きでしたし。

絵の中で高田さんに再会するとは思いもしませんでした。
高校の修学旅行で薬師寺に来た時に、私も高田さんの説明を直接聴いた一人です。
実は後で手紙も出したことがあります。
仏を展示品にしていいのかという問いでしたが、その話はいつかまた書くことにします。

高田さんの話を聞いて少し救われた気持ちで、唐招提寺に行きました。
唐招提寺は、改修工事がなされたはずなのに、雰囲気はそう変わっていませんでした。
節子と一緒におそばを食べた山門前のお店もまだ残っていました。
その時と同じように、経蔵の前で娘と一緒に休みながら、少し節子の話をしました。

初めての父娘旅行は、こうして最後は当時の雰囲気のなかで、終わりました。
しかし予定よりも2時間も早く全行程を終わってしまいました。
斑鳩も西の京も、せわしない世界に向かっているようです。
節子だったらなんと言うでしょうか。
勝手な懐古趣味かもしれませんが、私には昔とは違う世界になってしまったようで残念でした。

しかし娘に付き合ってもらってよかったです。
娘は京都を歩いてから帰るというので、私は1日早く帰宅しました。
帰ったら寒いのに驚きました。
奈良は初夏のようでしたのに。

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2011/10/20

■節子への挽歌1508:久しぶりの奈良

節子
19~20の2日間、ユカと始めての父娘旅行をしました。
前日、大阪で仕事があったのですが、19日のお昼に京都で落ち合い、奈良に行きました。
久しぶりに奈良です。
まだ娘たちが小さかった頃、家族旅行もしたはずですが、娘たちにはあまり記憶がないようです。
私もたぶん10年ぶりですので、どう変わっているかいささかの危惧を感じていました。

まったくといっていいほど変わっていました。
そればかりではありません。
距離感や空間配置さえが私の記憶とは大きく違っていたのです。

一番の違いは、春日大社の位置でした。
興福寺から春日大社までがこんなに離れているとは思ってもいませんでしたし、春日大社から東大寺の3月堂まではすぐだったはずなのに、道に迷うくらい遠くなっていました。
まさかのこの10年で地殻変動したわけではないでしょう。
愛する者たちにとって、遠い道はないといいますが、節子と歩いていた時にはきっとあっという間の距離だったのでしょう。
話に夢中になっていて、途中の距離感はないわけです。

今回は娘が付き合ってくれましたので、それでも近かったはずですが、一人ではたぶん歩ききれなかったでしょう。

猿沢の池は昔のままでしたが、そこから奈良公園に上がる階段は広くなっていました。
そこで撮った節子の写真が鮮明に私の記憶に残っています。
そこから私たちの物語が始まったのです。
その最初の日と同じコースを、娘と2人で歩きました。
時に節子の話をしながら。

残念ながら奈良公園は雰囲気が違っていました。
それに、春日大社は人を寄せ付けなくなっており、東大寺の2月堂も3月堂も改修中でした。
4月堂だけは以前とまったく変わっていなかったのがせめてもの救いです。
そして、大仏殿の裏庭にはそう簡単には入れなくなっていました。

それでも仏たちには会えました。
阿修羅は興福寺の国宝館で、月光菩薩には東大寺ミュージアムで、ですが。
展示品になってさらされているようで、どこかさびしさはあります。
阿修羅は小さくなり、月光菩薩は色白になり、いずれもオーラが弱まっていました。
節子が一緒だったらどういうでしょうか。
少なくとも私はもう奈良市には来ないでしょう。
3月堂が改修されても、たぶん来る気にはなれません。

夕方、ユカに連れられて「ならまち」を少し歩きました。
私一人であれば、訪れない場所です。
それに今回の旅行は、ユカが節子の役割を果たしてくれ、私はただ行きたいところをいえばいいだけでした。
節子がいた頃のように、財布も持たずに、細かなことを気にせずに旅行できました。
支払いはすべてユカがしてくれました。
お金を払う行為が私には一番苦手なのです。
感謝しなければいけません。

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2011/10/18

■節子への挽歌1507:前世で徳を積んでいたようです、もしかしたらですが。

久しぶりに東海道新幹線に乗りました。いま米原を過ぎて滋賀に入りました。
1年ぶりかもしれません。
車窓の風景をみているとさまざまなことが思いだされます。
節子の両親は滋賀に住んでいましたので、毎年、何回かは私も米原で降りました。
米原から京都までの車窓風景も見慣れたものです。
節子に最初に会ったのも大津でしたし。
(ここまでは車中で)

今日は私が取り組んでいるコムケアの関係者とお会いするための旅です。
心の通った相手ばかりなので気楽な旅で、むしろ私にとっては元気回復の旅なのです。
しかし、そのテーマはいずれもかなり「重い」ものですが、重いテーマであればこそ、明るく軽やかに取り組む必要があります。

最初は京都でした。
私よりも高齢なのに私よりも段違いに元気で柔軟な高林さんとその仲間の福井さんと会いました。
その後、少し時間があったので、東本願寺の阿弥陀堂に立ち寄りました。
少しばかりミニ瞑想しましたが、さまざまな人がさまざまなスタイルで祈っています。
大きな広間の阿弥陀堂は、とても安堵できる空間です。

つづいて大阪へ。
最近、NHKがドラマ放映した「経営の神様」の神様の松下むめのさんに絶大な信頼を得ていた松本さんにお会いしました。
ようやくむめのさんのすごさが話題になりだしましたが、どんなにがんばっても、男は女に勝てません。

夜はコムケア活動を応援している住友生命の皆さんと会いました。
節子を見送って、精神的にはどん底にいたときに、私に会いにきて、ともかく応援するからと言ってくれた的場さんが、佐藤さんも元気になりましたね、と言ってくれました。
当時を思い出しました。

私が社会から隠棲せずにすんだのは、コムケアの仲間のおかげです。
改めてそう思いました。
それにしても、どうして私は、こんなに良い人にばかり恵まれているのか。
もしかしたら前世で私はよほど良いことをしてきたのではないかと思います。
そうでなければ、こんなにみんなが支えてはくれません。
来世もみんなから支えてもらえるように、もう少し現世で仕事をしなければいけないのかもしれません。
本当は、節子と一緒にそれをしたかったのです。
一人で取り組むのは少しきついこともありますが、節子の分までがんばらなければいけません。
彼岸に早く行きたいなどと思ってはいけませんね。
はい。


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2011/10/17

■まだベトナム戦争は終わっていません

1970年代の後半だと思うのですが、タイに行く途中、飛行機がベトナムの近くを飛んだことがあります。
ベトナムの国土が見えたのですが、その一部が赤茶けて見えた記憶があります。
その写真もあるはずですが、見つかったらあとでこの記事に添付します。
ベトナムの国土が赤茶けていたのは、いうまでもなく、ベトナム戦争で米軍が枯葉剤を空からまいたためです。
それを観た時には衝撃を受けました。
豊かな植生に恵まれていたベトナムは破壊されました。
しかもその影響はいまなお続いているのです。

坂田雅子さんは数年前に、「花はどこにいった」で話題になった人です。
坂田さんの夫はフォトジャーナーリストでしたが、2003年に54歳の若さで癌で亡くなりました。
彼は以前、兵士としてベトナム戦争に送られた過去を持っていることから、坂田さんは夫の死について、当時戦場で浴びた枯葉剤が原因ではないかと思ったのです。
そして、ベトナムに行き、いまだに枯葉剤が、ベトナムの人々を蝕み続けている現実を知り、それを告発したのが、映画「花はどこへいった」でした。
観た方も少なくないでしょう。

「沈黙の春を生きて」は、その続編です。
舞台はさらにアメリカへと広がります。
この映画の最初にダウ・ケミカルの工場が出てきますが、レイチェル・カーソンの「沈黙の春」の恐怖が極めて鮮烈に語られていきます。


ベトナム戦争は1975年に終結したとされています。
しかし、ベトナムにとってもアメリカにとっても、まだ戦後は終わっていないのです。
そのことがよくわかります。
しかし、この映画には救いがないわけではありません。
坂田さんもそうですが、登場する被害者のみなさんが、怒りを発しながらも、生命への愛や家族の絆、社会とのつながりをメッセージしてくれるからです。
反戦や平和への道は、やはり愛と許しにあると、この映画を観て、改めて感じました。
観るのはかなり勇気が必要ですし、重い映画ですが、ぜひ多くの人たちに観ていただきたいです。
とりわけ原発関係の技術者や、いま原発被害の補償に取り組んでいる人にも見てほしいです。
何が大切かに気づいてもらえるかもしれません。

もう少し書きたかったのですが、夜の集まりの参加者がやってきましたので、とりあえず今日はここまでにします。

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■節子への挽歌1506:反省

私の目の異常をブログやフェイスブックに書いたら、早速、いろんな人から連絡がありました。
最初に連絡があったのは、任侠の人、神崎さんからですが、電話に出た途端に「目と映画とどっちが大事や」と怒られました。
選択肢の並べ方が間違っています。
目と「やろうと決めたこと」とどっちが大事や、と聞かれれば、躊躇なく、後者です。
それがあなたの世界(任侠の世界)だろうと反論しました。
自分のことと他人とで、判断基準が違うのはよくありません。
困ったものです。

ブログには書きませんでしたが、お医者さんからは眼科に行けといわれましたが、眼科ではなく、映画を見に行ってしまいました。
岩波ホールで上映している「沈黙の春に生きて」です。
ベトナム戦争で空からまかれた枯葉剤の後遺症をとりあげたドキュメンタリーです。
その感想などは時評編に書くつもりですが、映画館から出たら携帯電話に留守電が入っていました。
韓国の佐々木さんです。
留守電には「ちゃんと医者にいってください」と入っていました。
軽い気持ちで書いてしまいましたが、いろんな人に心配をかけてしまったようです。

しかし、心配は不要なのです。
なぜかといえば、20年以上前に、私の友人がある有名な占い師に私のことを占ってもらってきてくれました。
そうしたら、私は93歳まで生きることがわかったのです。
だから心配はないのです。

ところで、「沈黙の春に生きて」には、枯葉剤の後遺症で大変な障害をもった人たちが登場します。
もちろん失明した人も出てきます。
それを見ながら、もっと自分の身体を大事にしないといけないと思いました。
そして、節子のことを思い出しました。
節子は、病気になってから、自分のみならず、周りの人の健康や身体のことをとても気にするようになりました。
病院にも行かず、映画館に行ってしまった私を、節子はきっと怒っているでしょう。
神崎さん、佐々木さん、そして節子と、3人の人に怒られたら、反省するしかありません。

今日の夜は湯島で「ささえあい交流会」ですが、少し早めに帰らせてもらおうと思います。
93歳まで生きても、まわりに迷惑をかけすぎるようになっては、いけませんので。

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■節子への挽歌1505:異変

節子
私もかなり彼岸に近づいてきたようです。

昨日は久しぶりに茨城県の美野里町(現在は小美玉市)の文化センター「みの~れ」に行きました。
10年前に住民みんなで本を出版しましたが、またその方式で本を出版したいというのです。
その準備会をやっていたのです。
懐かしいメンバーも参加しました。

その話し合いの途中に、突然に、視界がおかしくなりました。
焦点が合わないのです。
明らかな異常です。
話の最中だったので、みんなに気づかれないように様子を見ました。
なかなか元に戻りません。
脳の異常かもしれません。
さてどうするかと思っているうちに、何とか元に戻りました。
しかし30分くらい、異常は続きました。
だれにも気づかれなかったと思いますが、少し冷や汗もでました。
娘に迎えに来てもらおうかと考えたほどです。

幸いにその後は安定しました。
話し合いは思ったより盛り上がってしまい長引きましたが、何とか乗り切れました。
ところが帰ろうとしたら、文化センターの山口館長が食事を誘ってくれました。
1時間程度であれば、とお付き合いしたのですが、これまた話が盛り上がってしまい、
気がついたら電車の時間を超えていました。
そのため山口さんは私を自分の車で土浦まで送ってくれる羽目になってしまいました。
その後、幸いに異常は再発せずに、無事、帰宅したわけです。

娘たちに事情を話し、私が死んだら困るかなあ、と訊いたら、めずらしく「困るよ」と答が返ってきました。
まだ此岸での存在価値はあるようです。
いや解放されていないというべきかもしれません。
症状は収まったものの、とても奇妙な疲労感と違和感があり、お風呂に入ってすぐ寝ることにしました。
それで挽歌も書けませんでした。

夜も何度か目が覚めました。
朝起きてもどこかすっきりしません。
かかりつけの遠藤クリニックに行ったら、一度、眼科に行ってくださいといわれました。
手足の痺れがないようなので、高血圧のせいではなさそうです。
しかし頭の後ろがなんとなくもやっとしています。
明日から大阪に行きますが、めずらしく少し不安です。

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2011/10/16

■TPPってなんでしょうか

久しぶりにテレビの新報道2001を見ました。
いまの神奈川県知事の黒岩さんがやっていた時は面白かったのですが、最近は完全に政府御用報道になっていますので、見るのをやめていました。
久しぶりに見たら、亀井さんが出ていました。
この人も、私にはかなりまともな政治家に見えます。
今日はめずしく髪の毛がきちんとしていました。

TPP議論がありました。
コメンテーターたちはみんな立ち位置が「工業」あるいは「金融資本主義」にありますから、相変わらず自由化しないといけないと言っています。
工業は自由化できるかもしれませんが、生活や文化、自然に立脚した農漁業は、自由化といってもそう簡単ではありません。
その意味合いはまったく違うはずです。
亀井さんが日本総研の高橋理事長に、あんたはTPPの具体的な内容を知っているのか、と言うような質問を発していました。
高橋さんは答えられませんでした。
その前に、亀井さんが二国間協定の話をしだしたら、高橋さんはTPPは多国間です、と口を挟みました。
もちろん亀井さんはそんなことはご存知で、多国間ではなく二国間を基本にすべきだと説明しだしたところだったのですが、高橋さんの人を見下した態度が見事に出ていました。
無知の人ほど、人を見下すものです。
高橋さんはあまり広い知識をお持ちではないようにいつも思いますが、自覚はないでしょう。
「専門家とはすぐれた専門領域の知識をもっている人のことだと思っている人たちがいたとしたら、その人々はよほどおめでたい人間たちである。そうではなく専門家とは、専門領域でしかものを考えられない人のことである」と言い切ったのは、内山節さんですが(「文明の災禍」)、せめて専門領域の知識や判断力くらいはもう少し磨いてほしいものです。

話がまたずれだしました。
自由化の話です。
TPPは単に工業製品の貿易の条件設定の話ではありません。
文化に関わる話です。
数年前に金融ビッグバンが始まってから、何が起きたかを思い出さなければいけません。
あれは金融制度の話ではなく、間違いなく文化の話だったのです。
同じ間違いを繰り返してはいけません。

参加ではなく話し合いに参加だからいいではないかと多くの国民は思っています。
イソップ物語に、きこりがやってきて、森の木に、ナタの柄がないので、枝を1本分けてもらえないかと頼みました。
枝の1本くらいいいだろうと森の木はその願いをかなえました。
きこりは、その枝でナタを完成させ、すべての木を切ってしまったのです。

あまり適切なたとえではないかもしれませんが、交渉に入ること自体が、参加の第一歩なのです。

TPPの根底にある理念は、これまでの経済パラダイムの延長なのです。
そこから抜け出ようとしている時に、TPP議論とはとんでもないと私は思っています。
もし取り組むのであれば、現場も知らず、「専門領域でしかものを考えられない人」たちだけではなく、実際に生活している現場の人たちを中心にして議論すべきです。
ニューヨークに端を発したデモは欧州にも広がっています。

やはり新報道2001は御用番組でした。

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2011/10/15

■節子への挽歌1504:私たちは良い親ではなかったようです

節子
今日の夕食時は節子の話で持ちきりでした。

娘のジュンは結婚して近くに住んでいますが、毎日、わが家の庭にあるスペインタイル工房に仕事で出勤です。
そのため夕食はほぼ毎日、わが家で食べています。
パートナーは、柏でエヴィーバ!というレストランをしていますので、夕食時にはいないのです。
上の娘のユカは、私と同居しています。
ですからわが家の夕食は、私がいると3人で食べることになります。
なんだか代わり映えがしません。

今日はいくつか節子の話題が出ました。
その一つは、時々、娘たちから出てくる、子どもの頃、小遣いが少なかったという話です。
私も何回か聞きました。
2人の娘が共通して同じような体験をしています。
子どもの頃、同級生たちと遊びに行っても、いつも小遣いが一番少なく、みんなのようにお土産も変えなかったという体験です。
毎月の小遣いも、どうやらずば抜けて少なかったようです。

わが家では、子どもがお金を使うことには極めて消極的だったのです。
これは私たちに共通した文化でした。
お金がなかったからかもしれませんが、それだけではありません。
子どもがお金を使うことに、どうも抵抗があったのです。
それに、私も節子も、そもそもお金を使う文化があまりなかったのです。
まあ、それはそれで一つの考え方なのですが、娘たちにとって不幸だったのは、両親ともがお金に疎かったことです。
たとえば、今時の子どもたちの小遣いの相場を知らなかったのです。
ですからわが家の娘たちは、駄菓子屋でお菓子を買う経験もあまりしていないようです。
まあわが家の近くにはあんまり駄菓子屋などありませんでしたが。

小遣いが少なかったことから起こった、いろんな事件を娘たちは話してくれました。
節子がいたら、自分のせいであることなど忘れて、たぶん転げまわって笑うでしょう。
節子は、そういう人でしたから。
私は、そういう節子が好きだったのですが。

娘たちの話には、当然、私も登場します。
あんまり「良い父親」とはいえないようです。
たとえば、なけなしのお小遣いで私にウィスキーボンボンをプレゼントしたのに、このお菓子はあんまり好きじゃないな、と言われたと、ジュンが言います。
娘からのお土産は何でも喜ぶはずなのに、余計な一言を言ってしまい、子ども心を傷つけていたようです。

この頃、娘たちから子ども時代の意外な話を聴くことがあります。
節子と一緒に聴きたかったです。
そして節子と一緒に笑い転げたかったです。

節子
どうやら私たちは、「良い親」ではなかったようですよ。
それはそうでしょう。
いまさらどうしようもできませんが。

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■年金問題の再浮上

最近、あまり話題にならなかった年金問題がまた浮上してきました。
支給開始時期をさらに先延ばしする案も厚労省から出てきました。
年金基金に寄生するゾンビ官僚はまだ健在のようです。
小沢裁判よりも厚労省官僚裁判をしてほしいです。
金額の桁が全く違います。おそらく兆円単位の犯罪でしょう。
それに新しい年金の構造はいつになっても見えてきません。

こうした厚労省案に対するテレビなどでの識者の議論を聞いていても、年金基金寄生族と発想はそう違わないように思います。
つまりはこれまでの経済の枠組みで考えていますから、雇用と年金の関係がどうのとか、成長戦略が必要だとか、老後も雇用労働する仕組みをつくれるのか、とかいうことが話題になります。
そういう発想が、年金を破綻させ、経済を破綻させたのではないかと思いますが。

私はベーシックインカムのような新しい仕組みや雇用されずとも生きられる選択肢を広げる経済(戦前までの日本はそうでした)への転換といった、広い視野で考えなければこの問題は解決しないように思います。
人口構造と経済の成長段階が大きく変わったのですから、従前の発想での仕組みは維持できるとは思えません。

昨今の生活費の多くは、都市部の場合は住宅費です。
住宅問題を根本から見直す必要もあります。
空き家が多くなっている住宅を開放して、1家族1住宅を無償で提供することはできないものでしょうか。
30年くらいかければ、そうしたことも可能だと思います。
住まいさえ確保できれば、200万人を超えた生活保護世帯も大幅に減少するでしょう。
もちろんベーシックインカムを導入すればゼロになります。

私は幸いに住居は自分のもので、ローンも残っていないので、住宅費はそうかかりません。
そのおかげで、年金以外の収入はほとんどありませんが、生活は豊かです。
経済的には豊かではないかもしれませんが(時々現金が不足します)、他者からお金をもらわないと豊かな暮らしができます。
豊かさとは何かの定義の問題でもありますが、私とは桁が違う高給を得ている人でも、豊かでない人はたくさんいるように思います。

自然に囲まれた農漁村地域はどうでしょうか。
都市部ほどにはお金がなくても豊かに暮らせるでしょう。
まだ日本には完全にお金に汚染され尽くされていない地域は残っています。

年金をお金だけで解決しようなどという発想を捨てないといけません。
大切なのは雇用労働から見捨てられた時にも、豊かに暮らせることなのであって、年金支給時期や支給額は、そのための手段でしかありません。
老後もお金漬けの暮らしをしたいなどと思わせるような政策には賛成しかねます。
しかし多くの、と言うよりも、ほとんどの国民はすでにお金の奴隷になっていますから、年金にすがりつくわけです。

こうした金銭中心の経済や生き方から抜け出る必要があります。
人はパンだけで生きているわけではありません。
パンがなければケーキを食べればいい、とマリー・アントワネットは言ったそうですが、彼女の発想にも真実が含まれています。

ちなみにTPPの議論にも全く同じ発想を感じます。
金銭中心主義の経済発想の世界の恩恵を受けている人たちの議論はみんなワンパターンです。

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2011/10/14

■節子への挽歌1503:今度こそ奈良に行きます

節子
奈良に行くことにしました。
ユカがめずらしく付き合ってくれるそうです。

来週、大阪でNPO活動に取り組んでいる友人知人に会いに行くことにしました。
最近はどうも遠出しておらず、世界が膠着してきているのが自分でもよくわかります。
何とかしないといけません。
それで関西に出かけることにしたのですが、いっそのこと、もう1日、滞在して久しぶりの奈良を歩こうと考えたのです。
歩くコースは、節子と最初に歩いたコースです。
佐保路にしようかとも思ったのですが、あの道はいまでは節子と歩いた時の雰囲気は全くないでしょうから、やめました。
平凡ですが、奈良の標準散策コースです。
一人で歩くのは気が重いので、娘を誘ったわけです。
どんな旅になるのでしょうか。
もっとも行きも帰りも娘とは新幹線は別々です、
京都で落ち合って奈良に行こうと言うわけです。

関西には友人知人がたくさんいます。
しかし今回は会うのはやめました。
ただただ「奈良を歩く」ことにしたいと思ったからです。
一人ではなく、娘を誘ったのは、どこかで立ち止まりたくなかったからです。

節子がいなくなって、奈良はどう変わったでしょうか。
ちょっと興味があります。
いや言い直しましょう。
節子がいないいま、私にとっての奈良はどんなメッセージを与えてくれるだろうかということです。
奈良は、節子と何回も歩きましたが、正直、なぜか私の記憶のなかではほとんど消えているのです。
残っているのは、夢と同じく、気分だけです。
飛鳥にはお茶目な節子、西の京には気だるい節子、斑鳩には神妙な節子、そして東大寺には心が躍動するような若い節子の、それぞれの雰囲気がただよってくるのです。
論理的な記憶はもうすでに壊れているのでしょうか。
断片的なシーンとその土地につながった節子との気分だけが浮かんできます。

私たちは猿沢の池から始まりました。
そこで撮った節子の写真を見て、「そうだ節子と結婚しよう」と思ったからです。
まあ私の人生は、こんな感じで、思いつきで大きく動いてきています。
実際にはほとんどの人もまた同じでしょう。
人生を変えるのは「思いつき」であり、「思わぬ事件」です。

数か月前に、たしかこの挽歌を書いている時にも、「そうだ奈良に行こう」と書いた記憶があります。
その時には行けませんでしたが、今回は行けそうです。
猿沢の池も歩いてきましょう。節子に会えるかもしれません。

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2011/10/13

■ネクタイをしない人が増えていますね

今日、久しぶりに新宿から御茶ノ水まで中央線に乗りました。
背広を着ている男性の多くがネクタイをしていないのに気づきました。
ちょうど適度な混み具合だったのですが、私の観察では(場所も移動して確認しました)、背広を着てネクタイをしている人が2割程度でした。
予想外に少ないのです。
ネクタイをせずに、ワイシャツの2番目のボタンまではずしている人もいました。
もうクールビズの時期は過ぎたはずですが、一度、ネクタイをはずした人はノーネクタイの快適さをはなしたくないのかもしれません。

小学生の頃読んだ佐藤紅録か山岡壮八の小説に、日本人はふんどしからネクタイへと、締める場所を変えたためにおかしくなった、というような文章があったのが、ずっと忘れられないのですが、今度は「締めること」そのものを捨てるのかもしれません。

私はほとんどネクタイをしませんが、時に講演をさせてもらったりする時には、ネクタイをするようにしています。
悲しい話ですが、背広を着てネクタイを締めると、なぜか気分がしゃんとするのです。
組織人としての洗脳からまだ抜けていないようです。

人は着るものによって意識が変わります。
今年の夏は、Tシャツが多かったのですが、ある若者から、佐藤さん、まだ入院気分ですね、と指摘されました。
その直前まで入院していたのですが、たしかに入院中と同じ服装で、オフィスに通っていました。
少し反省しました。
おしゃれでなくてもいいですが、着るものへの注意は大切です。
私にはそれがあまりできていません。

勝手なもので、私はネクタイが嫌いですが、国会の中継を見ていて、ネクタイをしていない議員はとても気になります。
議員にとっては正式の職場とも言える国会ではせめてネクタイをしてほしいと思うわけです。
ネクタイは、たしかに首を締めるわけですが、それはある種の緊張感をもたらします。
そうしたメリハリをもっとつけるべきではないか、と思うわけです。
まことに身勝手でではありますが。

と書きながら、どこかに自分でも納得できない気分もあります。
ハカマであればともかく、欧米の文化であるネクタイをしないとシャンとしない、あるいはシャンと見えないと思う、自分の意識とはいったい何なのでしょうか。
もしかしたら、私自身すでに欧米文化の隷属しているのではないか。

文化を大切にすることは難しいことです。

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■節子への挽歌1502:エジプト

節子
最近またエジプトは騒然としています。
コプト教徒と軍・警察が衝突し、死者が出ています。
なかなか治まりません。
娘たちと中野さんたちは大丈夫かなという話になり、フェイスブックで確認してみました。

中野さんはカイロにお住まいです。
わが家の最初の海外家族旅行はエジプトでしたが、その時にガイドをしてくださったのが中野さんでした。
その後、ささやかなお付き合いがつづいているのです。
中野さんが教えてくれた、バレンボイムのラマラ・コンサートは、心が震えるほどに感動的でした。
ご夫妻で帰国された時には、湯島にも来てくれました。

中野さんからすぐに返信がありました。
「平和的なデモ」なはずが一転して激化してしまったことに多くの方々が、当惑しております。昨日と今日のカイロの街は、まるで喪に服しているように静まり返っています。

今日は奥さんの眞由美さんからメールが届きました。
眞由美さんはNHKラジオ「深夜便」に出演されています。
深夜なので私はほとんど寝ているのですが、今日は起きていようと思います。
コプト教徒と軍・警察の<衝突>を取り上げるそうですので。
番組表では彼女が登場するのは午前0時代です。
みなさんも起きていたらぜひお聞き下さい。
現地で住んでいる人の、確かな報道ですので。

それはそれとして、節子がいたら、間違いなくもう一度エジプトに行ったはすです。
アブ・シンベルもスフィンクスも、ルクソールも、あまりに衝撃的で、結果的には何も見てこなかったような気がします。
古代遺跡は泥の塊でしかないと言っていた節子も、エジプトは好きになっていました。
一段落したら、ぜひもう一度夫婦で訪ねようと思っていましたが、節子がいなくなってはもはや行くことはありません。
残念ですが、来世に回しました。
来世にはエジプトの謎はもう少し解けているでしょうが、観光地化も進むでしょうから、私好みではなくなっているかもしれません。

エジプト旅行で知り合った金沢の八田ご夫妻も、今はお2人とも鬼籍に入られ、節子に会っていることでしょう。
エジプトに行った頃の節子は、もしかしたら一番元気だった頃かもしれません。
あの時に、不死の秘法を学んでくればよかったです。

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2011/10/12

■節子への挽歌1501:「バルド・トドゥル」

節子
あなたが逝ってしまってから、今日で1501日目です。
あっという間の1500日であり、長い長い1500日でもありました。

チベット仏教の有名な経典に「バルド・トドゥル」があります。
「チベット死者の書」として有名な経典です。
前に一度、言及したことがありますが、「バルド」は中間の状態を意味します。
中間とは、生と生の中間です。
人は死ぬと、バルドの状態に入り、そこからまた新しい生に移っていくというわけです。
そのバルドの世界にうまく入れるように、チベット仏教では死に臨む人の耳元で、この経典を語り聞かせます。
それは死後49日間にわたって行われるのです。
「トドゥル」とは、耳で聞いて解脱するという意味だそうです。

生は、ずっと「バルド」にとどまるわけではありません。
そこからまた生の状態へと移ります。
チベット仏教では「転生」が大きな意味を持っています。
最高僧であるダライ・ラマも転生を繰り返します。
転生を示す証拠は、これまでにもたくさん語られています。

節子は今どこにいるのか、を問うことは意味がありません。
節子は、おそらく「いまここにいる」からです。
49日を過ぎて、解脱できれば、時空間を越えた彼岸へと移ります。
それはこう考えていいでしょう。
「個」としての生命が、一度、「大いなる生」に包み込まれて、次の生にそなえる状態に入る。と。
私は、彼岸とは大いなる生そのものではないかと、最近考えるようになりました。
大いなる生は、私を含む全宇宙を覆っているとしたら、彼岸は世界そのものです。
ただ現世のようには、個々の存在、個々の生命体にはわかれていないために我々の感覚では認識できないだけです。

一昨日見たテレビドラマの「風をあつめて」の最後のシーンは、娘を見送った主人公が、以前家族で一緒に見た阿蘇の火口を見て自転車で坂道を走っていくのですが、それにかぶせて、娘がいまも一緒にいるから大丈夫だというような主人公のナレーションが流れます。
とても素直に、心に入りました。

節子がいなくなって1501日。
よくぞここまで私も生きつづけられたと思います。
挽歌ではメソメソしているように感ずるでしょうが、挽歌を書いていない時はそれなりに元気です。
明るいしよく笑うし、決してくらくはありません。
それは節子が一緒にいることを実感できているからです。
だからこそ、時に無性に会いたくなることもあるのですが、会えなくても節子のぬくもりや気持ちを実感できることもあるのです。
だから1500日、持ちこたえられました。
そして気づいたのですが、私にとっても今は「バルド」なのです。
そしてもしかしたら、私は気づいてはいませんでしたが、ずっと耳元で節子が語っていたのかもしれません。
だから私も「バルド・トドゥル」の恩恵を得られたのではないか。
そんな気がします。

もう一度、昔読んだ「チベット死者の書」の解説本を読み直してみようと思います。

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2011/10/11

■節子への挽歌1500:考えなければいけないことが増えました

節子
先ほど、お風呂に入りながら考えました。
なんで最近こうも気分が混乱しているのだろうか、と。
さほど忙しいわけではありません。
節子が元気だった頃に比べれば、関わっているプロジェクトは半分にも届きません。
それ以上に、それぞれへのコミットの度合いが全く違います。
だから気楽なはずなのに、何やら心せわしく、気分ガ落ち着かないのです。
お風呂でそんなことを考えていたら、その理由に気づきました。

考えなければいけないことの範囲が広がったからです。
たとえば、寒くなれば、着るものを考えなければいけません。
先月は急に寒くなったので朝、秋のスーツを出したら、きちんとしまっておかなかったので、カビだらけで着れなくて、着ていくものがなくて困りました。
そのうえ、服まで買いに行かなければいけません。
季節に応じて寝具も変えなければいけない。
親戚付き合いも少しは考えなければいけませんし、何か贈ってもらったら苦手の御礼の電話もしないといけない。
洗面所が壊れたら直さなければいけませんし、娘のことも考えなければいけません。
家計も考えないといけないし、貯金通帳の残高も注意していないと電気代が引き落とせなかったという手紙が届きます。
庭や室内の花には水もやらなければいけないし、何を食べたいか娘に訊かれて答えなければいけません。
チビ太の介護も、金魚の世話も、意図せざる住人のゴキブリの退治も、すべて気にしないといけません。
気づいてみたら、やることが急に増えてしまっていたのです。
そうそう掃除もしないといけない。

節子がいた頃は、そういうことに私は一切、気を使わなくてよかったのです。
寝具も衣替えも、季節が来れば自然と行われていましたし、家計の心配などしなくてもよかったのです。
何かが欲しくなったら、節子に一言言えば、たいてい実現したか、あるいは忘れてしまったかで、いずれにしろ私は何もしないで口だけ動かしていたらよかったのです。
そして私は、関心を持ったことだけにわがままに時間と意識を注入できたというわけです。

経済的な仕事などは生活的な仕事に比べたら簡単なものです。
論理で対応できるからです。
しかし生活はそうはいきません。
家事をやったことのある人ならわかるでしょうが、家事は実に大変です。
チビ太の介護をして気づいたのは、わが両親の介護をしてくれた節子の苦労です。
まあ会話ができた分だけ、チビ太よりは楽だったかもしれませんが、大変だったでしょう。

テレビのCMにもありましたが、生活を支えるということは大変なことなのです。
私が、能天気に、実にさまざまな課題にのめりこめたのは、節子が私の生活を支えてくれていたからです。
毎年、赤字つづきの会社の経理までやってくれていました。
その節子がいなくなったために、私の守備範囲は一挙に数倍になってしまった。
だからきっと最近心が混乱してしまい、心休まることが少ないのかもしれません。

幸いに娘が私の生活を支えてくれてはいますが、娘にはやはり遠慮がありますし、娘もまた私に遠慮がある。
だから節子とは違って、無条件に丸投げして、忘れるわけにはいきません。
娘にはよく「節子だったらなあ」と言うのですが、即座に「私は節子じゃありません」と言われてしまいます。
それはそうです。反論のしようがない。
でも節子に完全に任せていたために、何をやっていいのかさえ気づかないこともあるのです。
節子が心配していましたが、私にはやはりあんまり生活力はなさそうです。
困ったものです。
節子はきっと彼岸で、それ見たことかと半分笑いながら、心配しているでしょう。

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■部分的つきあい・功利的なつきあい

前の記事でご紹介した小沢さんとフツーの市民の座談会の紹介を昨日、フェイスブックも流しました。
そうしたら、ある人から1時間半は長い、ダイジェストはないのか、内容の時間割をした目次はないのかと質問されました。
その人にはいささか失礼だとは思いましたが、そういう発想にこそ問題があると反応させてもらいました。
ダイジェストや一部の都合のいい情報だけを効率的に集めた結果が、昨今の社会を生み出していると私は思っています。
そうした小賢しい器用な生き方は捨てなければいけません。

そうした「部分的つきあい」が、自然との関係においても、人との関係においても、広がっています。
私は、ほとんどの人が「功利的なつきあい」をしてきます。
それを非難するつもりはありませんが、私には哀しい話です。
「部分的つきあい」や「功利的なつきあい」は、状況を超えた「付き合い」関係を生み出しません。
そこからは「支え合うつながり」は育ってはいきません。
しかし、人が生きる上で必要なのは、功利的なつながりや部分的なつながりではないでしょう。
困った時に支えてもらうためには、相手が困っている時には支えることも必要ですが、それ以上に大切なのは、困ろうと困るまいと、日常的なつながりを大切にしていることです。
さらにいえば、相手もことを気にしていることです。

自然との付き合いもそうでしょう。
今回の津波被害の多くは、自然とのつながりや付き合いをおろそかにしてきたことと無縁ではないように思います。
もしそうだとしたら、これからは自然とのつながりを基軸に置いた生き方を基本にしていくことが必要なような気がします。
原発事故も同じように、付き合い方が部分的、功利的だったことに一因があるような気がします。

世界は、考えるための要素によって違ってきます。
都合のよい要素を編集した情報は、判断を誤らせます。
コミュニケーションというのは曖昧な言葉なので、あまり使いたくはありませんが、共有された要素によって、コミュニケーションが引き起こす結果は大きく変わります。

25年以上前に、「非情報化革命論」という小論を書いたことがありますが、世界はますますヴァーチャルな、操作的な世界へと変質してきているように思います。
「絆」や「つながり」が流行語になっていますが、部分的でも功利的でもない、もっと生命的な自然のつながりを目指したいと思います。
「モモ」に出てくるような時間泥棒に用心しながら、心身を素直にすれば、それはそう難しいことではありません。

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■小沢一郎 VSフツ―の市民座談会

10月2日に市民組織「ネットメデイアと主権在民を考える会」が、小沢一郎さんをゲストに「小沢一郎 VSフツ―の市民・第2回座談会」を開催しました。
そのすべてが、ユーストリームで公開されていますので、ぜひ多くの人に見てほしいと思い、紹介させてもらいます。
http://www.ustream.tv/recorded/17634204マスコミでもその一部が流れていたようですが、ぜひ全編を見てほしいです。
ちょっと長いのが難点ではありますが、それだけの価値はあると思います。
座談会が終わった後に、小沢さんとスタッフの方たちとのやりとりがありますので、そこもぜひ見てください。
1時間半と長いのですが、政治の主権者としては、決して長い時間ではないように思います。

この全編を見てもらうとわかるのですが、小沢さんのマスコミの捉え方がわかります。
マスコミに情報を提供することは、都合よく編集されて決してその先には伝わらないと思っているのです。
むしろマスコミに情報を提供する事は、事実を隠すことになるということです。
世間の常識とは反対なのです。
そして、私もその考えに全く共感します。

昔は私も少しは新聞の取材を受けたことがあります。
ところが新聞に出てくるのは、私が話したこととはほぼ無縁、あるいは反対の意味合いになっていることが少なくありませんでした。
あまりにひどかった、ある全国紙の記者には苦情のファックスを出しました。
当時はメールがまだほとんどなかった時代です。
そのファックスが彼女の上司の目にとまったのだそうです。
彼女は私に恨みのファックスを送ってきました。
反省の気など全くないわけです。

マスコミではないですが、ある雑誌の取材を受けました。
かなり長い特集記事にしてくれたのですが、送られてきた原稿を見て驚きました。
改ざんもいいところです。
編集者に連絡し、録音していたはずなので聴いてほしいといいました。
編集者はテープを聴いて納得し、。記事を全面的に書き直してくれました。
これは雑誌だから事前に見せてもらえたのでできたことです。
マスコミの新聞やテレビは、ますそんなことはしません。
彼らにとっては、自分たちが編集した結果が「事実」なのです。
ちなみに、私は一度だけ、事前に原稿を見せてもらったことがありました。
その記者とは、今も付き合いが続いています。

話がずれましたが、小沢さんはこの座談会で、陸山会事件の裁判や原発事故への対応について話しています。
対談の相手は、「フツーの市民」ですが、基本的には小沢さんを支持している人たちのようです。
そこに限界があるかもしれませんが、だからこそ小沢さんの考えを引き出しやすいという面もあります。
小沢さん嫌いな方も多いと思いますが、ぜひとも見ていただき、辛らつなご意見でも結構ですので。聞かせていただければうれしいです。
今回は4月の座談会以来、2回目の放映ですが、もしかしたら、これからはショートタイムのものが定期的に放映されるかもしれません。

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2011/10/10

■節子への挽歌1499:夫婦的無意識

涙が出たせいか、挽歌が書けるようになりましたので、もう一つ書きます。

昨日、湯島で古希世代フェイスブック学びあいの会を開催しました。
高校時代の同窓生から提案があったので、フェイスブックで呼びかけたのです。
結局、集まったのは4人だけでした。
一人は節子もよく知っている乾さんですが、あとの2人は私の高校と大学の同窓生たちです。
大学の同窓生は店網と高橋。節子はそれぞれに会っています。
高校の同窓生は寺田さんですが、私もお会いするのが初めてなので、節子はもちろん会っていません。

私は、高校や大学時代の話を節子にしたことはあまりありません。
それに私は47歳で、会社を辞めてしまい、社会的なレールから離脱しました。
それ以来、官庁や大企業、大学などで活躍している友人たちとはあまり付き合わなくなりました。
世界がどんどんと違っていってしまったのです。
歳をとると、同窓会だとかメーリングリストとか交流が盛んになりますが、私はそれにもほとんど参加しません。
ですから、節子は私の若い頃のことを知りようもなかったのです。
一度、節子と一緒にハワイに行った時に、ポリネシアンセンターで大学の同級生だっ阿部夫妻に偶然に出会ったことがあります。
滋賀の大津で、結婚直後、「神田川生活」をしていた頃に、店網たちが来てくれたことがあります。
湯島にオフィスを開いた時に、高橋はワインを持ってお祝いに来てくれたことがあります。
私が本当に大学に通っていたことを節子が実感できる機会は、それくらいだったかもしれません。
大学時代の話を、私はしたことがほとんどなく、ましてや高校時代の話は全くしたことがないのです。
そう考えると、私たちはお互いのことを一体どのくらい知っていたのでしょうか。
あんまり知っていないのかもしれません。
しかし不思議なもので、大切なことはお互いに十分に知りあっっていた気がします。
私がどんな大学生だったかはたぶん節子はわかっていたでしょう。
何しろ私は子どもの頃から何一つ変わっていない、成長していないからです。

節子はどうでしょうか。
節子もたぶん私と同じです。
節子からきちんと聞いたことなどありませんが、私には子どもの頃からの節子のことが、手に取るようにわかります。

不思議なものです。
愛し合って一緒に暮らしていると、相手のすべてが共有化されていくのです。
集合的無意識からちょっと浮き上がったような、夫婦的無意識が生まれるようです。
それが、今の私を支えているのかもしれません。

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■節子への挽歌1498:どんな状況に置かれようと、それには必ず意味がある

節子
また2日間、ブログが書けませんでした。
時間がないわけでは決してないのですが、書けないのです。
最近は、時評編もなかなか書けずにいますが、毎日必ず書こうと決めた挽歌も書けないことが時々あります。
自然に生きるのをモットーにしていますので、無理はしませんが、それでも書かなくてはという気持ちが心から抜けません。

今日は、お墓参りにも行ってきました。
夕方だったので、お墓には誰もいませんでした。
誰もいない夕方のお墓は哀しいほどにさびしいです。

帰って、テレビをつけたら、私の好きな安田顕さんが出ていました。
NHKのドラマ「風をあつめて」です。
筋ジストロフィーの子を抱える家族の話でした。
なぜか涙がとまりませんでした。
実話に基づく話だそうですが、2人の筋ジストロフィーの娘と向きあいながら、いつしか娘たちに自分たちが生かされていることを知る夫婦の物語です。
決してハッピーエンドとはいえませんし、こんな言い方は不謹慎かもしれませんが、私には娘たちを失う夫婦がうらやましくさえ感じられました。
それで、涙が止まらなかったのです。
悲しかったからでは在りません。
それと同時に、自らを嘆く私自身の欲深さも反省しました。
人の幸せは、決して客観的な状況などではないのです。

もうひとつ感動したのは、主人公が勤めている福祉施設に出資を申し出てきた会社の社長や施設の上司のあたたかさです。
福祉施設の経営を支援しようと言い出した会社の社長は、主人公の家族状況を知った上で、娘さんたちのために人生を犠牲にして大変だね、というような言葉をかけます。
それに対して、主人公は、「犠牲ではありません、もし福祉に関わろうというなら、犠牲というような言葉を使わないほうがいいです」と言い返します。
この場面も私はとても共感できました。
しかしそれ以上に、その時には少し気分を害したように見えた社長が後で謝ってきたのに涙が出ました。
涙は、悲しいから出るのではないのです。

どんな状況に置かれようと、それには必ず意味がある。
改めてそのことを思い出しました。
そう思うとどんな時にも生きやすくなるでしょう。
しかし、そう思うのは簡単なことではないのです。
最近は精神的な疲労感が覆いかぶさってきていました。
しかし、涙が出たら、少し心が軽くなりました。
もしかしたら、まだまだ泣き足りていないのかもしれません。
お恥ずかしい限りですが、いつか思う存分涙したいと思います。

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2011/10/08

■節子への挽歌1497:「一人できちんと生きていくのは しんどいなー」

今日は私のことではありません。
近くの、やはり伴侶を亡くされた方からのメールの紹介です。

先週の手づくり散歩市にもしかしたらいらっしゃるかなと思っていましたが、来ませんでした。
風邪かなと思っていたら、やはり風邪だったようです。

先週末の手作り市に ぜひジュンさんのタイル工房と 佐藤さんのコーヒーを頂きに伺おうと思っていましたら 風邪にかかり 伺えず残念でした。
クスリもきちんと飲んでいるのに罹ってから三週間経っても まだなんだかスッキリしません。
ホームドクターは 夏の疲れもあるのでしょうとの診断でしたが 何もせず横になりながら なぜこんなに 長引くのかナーと考えてみました。
夫や家族がいる時は 早くよくなって 食事つくりや 滞った家事をしなくてはと思うのに 一人の今は 迷惑を掛ける人もなく 治りたいという気力がないんだなと気付きました。
一人できちんと生きていくのは しんどいなー いつまで生きなくちゃいけないのかなーと 肉体と精神は 連動しているのを痛感しました。
同じようなことを私も体験しているので、よくわかる気がします。
前にも書いたことがありますが、肉体と精神はまさに連動しています。
イヌイットは、生きる気を失うと風邪でも死んでしまうと、文化人類学者の方が書いていましたが、意識は生死さえ決めているのです。

だとしたら、節子は自らの精神、意思で、死を選んだのでしょうか。
また書き出すと長くなるのでやめますが、私はそう思います。
ではなぜ死を選んだか、です。
それは、おそらく問題の建て方が間違っているのです。
発想を反転させましょう。
節子は自らの精神、意思で、生きつづけていたのです。
肉体的にはもう限界を超えていたにもかかわらず、です。
だから問題を建てるとしたら、「なぜ生を選んだか」でなければいけません。
そしてその答は明確です。
家族を、とりわけ(たぶん)私を愛していたらからです。
そしてある見極めをつけて、旅立ったと思いたいです。

人は一人で生きていないが故に、しんどくても生きつづけようとするのです。
ですから、一人で生きていないからこそ「しんどい」のです。
たぶんそうですよ、YHさん。
言い換えれば、みんな「一人ではない」のです。

つい最近、知人の家族が自殺したことを知りました。
もう少し「しんどさ」に耐えてほしかったですが、一人ではないことを実感できなくなったのでしょう。
どうしてこんなことが起こるのか。
節子が知ったらとても悲しむでしょう。
私たちは、だれも一人ではないのです。
ご冥福を祈りながらも、とてもやりきれない気持ちです。

湯島では、みんな一人ではないということを感じてもらうための、カフェサロンを毎週のようにやっています。
いつかこの挽歌の読者限定のカフェサロンをやれればと思います

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2011/10/07

■節子への挽歌1496:2人の留学生

節子
今日は2人の留学生が湯島に来ました。
まったく別々にですが、なぜか今日は集中しました。
一人は韓国から、もう一人は中国からです。
2人とも女性で、一人は大学院を目指しており、一人は今月から大学院だそうです。
学ぶべき目標もしっかりと持っています。
いずれも友人からの紹介ですが、どうも日本の学生よりしっかりしています。

2人は、それぞれ別々に来ましたが、話をしていて、昔やっていた留学生サロンを思い出しました。
あれも節子がいたおかげで実現したものです。
もし節子が元気だったら、またやろうかと言うかもしれません。
節子は好奇心が強かったので、外国の人が好きでした。
節子がいたらたぶんわが家に招待したでしょう。

一人のほうがやりやすいこともありますが、夫婦で取り組んだほうが好都合のこともあります。
サロンは、私だけよりも夫婦のほうが雰囲気がやわらぎます。
節子と一緒にやっていた時には、女性もよく参加していましたが、最近の私だけのサロンでは男性ばかりです。
どこが違うのでしょうか。
それにおもてなしの仕方も違います。
節子は飲み物や食べ物を用意していましたが、私は面倒なのであんまり用意しません。
ですから同じサロンでも、どこか雰囲気が違うのです。

留学生サロンをやっていた頃は、いつか帰国したみんなのところを訪ねていこうと節子と話していました。
しかし残念ながら実現しませんでした。
いまも時にお誘いがありますが、節子と一緒にやっていた留学生サロンなので、私一人で行く気にはなれません。

節子と一緒に、いろんなことをやってきたことを思い出すと、寂しさがつのります。
みんな途中で終わってしまいました。
しかし、人生はそんなものなのでしょう。
途中で終わるのが、むしろ幸せな人生かもしれません。
そんな気が、今日はしています。

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■小沢さん報道で思うこと

小沢さんのニュースで報道は覆われてしまいました。
大きな意味を持つ事件ではありますが、その取り上げ方にはいささかの懸念もあります。
また、その陰でいろんなことが進められてしまう事が多いので、それも気がかりです。
しかし最近の新聞は、前にも書きましたが、記事の数が少なく、小さな動きはわかりません。
そもそもこの事件は、マスコミが育て上げてきた事件でもあります。
国民の多くがなぜ小沢さんをこれほど嫌悪するのか、私にはよくわかりませんが、マスコミが関与している事は否定できないでしょう。

もし同じような嫌疑を私がかけられたら、逃げようがありません。
私も桁が大きく違いますが、少しばかりの貯金がありますが、その出所を聞かれても答えられません。
しかも無罪を自分で証明するなどと言うことは、私には到底出来ません。
裁判官の推断で有罪になるような裁判制度では、法治国家とはいえません。

ブログで書いたこともありますが、私も一度、自転車に盗難保険証が貼っていなかったために犯罪者にされるところでした。
事の顛末はブログをお読みください。文京区元富士警察署天神町交番の山下巡査はもう定年で辞めたかもしれませんが、一人の巡査にさえ疑われたら無罪を証明することは難しいのです。
疑われるようなことをするなと思われるかもしれませんが、自転車はいつもマンションの屋外に駐輪していてほとんど乗らないので誇りまみれで、しかも私の服装がカジュアルすぎて、ホームレスのようだったのかもしれません。

私だけでなく、村木さんのようなキャリア官僚でさえ、抗弁できなかったのです。
権力とはそういうものです。
村木さんが当事者になってやっと気づいたように、支配する側の論理は論理ではありません。
支配が目的なのですから、論理はいかようにもつけられるのです。
だからこそ権力を裁く司法の世界は自立して、しかも透明性を実現しなければいけません。
それが司法改革の基本でなければいけません。

4億円の説明を問われて、小沢さんは検察に訊くように答えました。
自分よりも良く知っているから、と付け加えて。
私もそう思います。
検察は知り合えた事実を公開すべきです。
そこにもし疑いがあれば、起訴すればいいだけの話です。
起訴もせずに、なんとなく怪しいという雰囲気を出しているのは、私には卑劣としか言えません。
それに加担しているのがマスコミです。
国会で証言するのもいいでしょうが、そんなことで国会の時間をとってほしくありません。
どうせ内容のないやりとりで終わるでしょう。

問題は小沢さんが有罪か無罪かではなく、この国の危機を乗り越えられるかどうかです。
小沢騒ぎの陰で、誰が笑っているのか、それが気になります。

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2011/10/06

■節子への挽歌1495:健全さの維持

節子
最近は自分の言動のおかしさを相対化するのが難しくなっています。
節子がいた頃は、節子の反応で私自身の言動を相対化できました。
節子も私同様、あんまり常識はありませんでしたが、少なくともその反応で自分の行動を相対化する視座を得られました。
だからこそ、私としては思い切り自由に発想し行動できた面があります。

しかし、節子がいない今は、いささかの危うさがあります。
このブログの時評編の私の意見もかなり偏っているはずです。
表現はさらに独善的です。感情的で、品格もありません。
節子がいた頃は、時々、修正勧告が出たほどです。
私自身ちょっと気になる時には、予め節子に読んでもらいました。
いまはそれもできません。
ですから時に書きすぎたりして、後で反省することもあるのです。

それに最近はかなり「ひがみ根性」がたかまっているような自己嫌悪感もあります。
昔のようなのびのびした明るさは自分でも失われたと感じています。
だから最近のブログは、かなり偏っているだろうなと自覚していました。

最近、思ってもいなかったTさんがブログを読んでくださっていることがわかりました。
それで、いささか気になって、

最近はどうも社会が病んでいるような気がしてなりません。
私もそうなのでしょうが。
と弁解めいたメールをTさんに送ってしまいました。
そうしたら返事が来ました。
佐藤様はずば抜けて健全でいらっしゃいます。
「ずば抜けて健全!」
事実はともかく元気が出ました。
Tさんは私よりも10歳ほど年上、欲もなく邪気もなく、実に誠実な方です。
その人から「健全」と言われると、それは元気が出るものです。
それに私は人の言葉はほぼすべて信じてしまうというタイプなのです。

節子がいなくなってから、私の性格はかなり悪くなりました。
自分でもわかります。
人の思いやりを素直に受け容れられないばかりか、気遣いにまで時に反発してしまうのです。
節子のことを忘れているような人には、ついつい邪険にしてしまいます。
もともとあまり健全とはいえなかった私の精神は、ますます邪気を帯びてきている怖れがあります。
そう思っていたのですが、なんと予想外の「健全」エールです。

愛する人を失うと世界が変わります。
最近、挽歌にコメントを書いてくれた方が「希死念慮」という言葉を使っていますが、その気持ちはよくわかります。
私はそこから抜け出しましたが、その思いに襲われたこともあります。
いまでも、自暴自棄的な気分がどこかに残っています。
そのため、意見が必要以上に極端に走りかねません。
健全さを維持するのは、難しいのです。
しかし健全さは生きる基本でなければいけません。
Tさんのエールを心しながら、節子のいる時の健全さを思い出そうと思います。

愛する人を失った人は、自分だけで考えていてはいけません。
誰かに心を開くことが大切です。
私はこうして挽歌で心を開いているので、もしかしたらささやかな健全さを維持できているのかもしれません。

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■小沢さんの記者会見を見ました

小沢さんの公判が始まりました。
罪状認否で、小沢さんは「この裁判は直ちに打ち切るべきだ。百歩譲って裁判を続けるにしても、私が罪に問われる理由は全くない」と述べました。
私も先ほど、テレビで全部聴きました。
すごい対決姿勢です。
これでまた小沢嫌いが増えるでしょうが、いかにも小沢さんらしいやり方です。
賢くありませんが、私の好きなやり方です。
言っている内容は、ほぼ私の考えと同じです。

日本の司法は自立していません。
たとえば、いま問題になっている原発にまつわる裁判の歴史を調べれば、すぐわかります。
日本初の原発立地裁判は四国電力の伊方訴訟です。
原発の安全性に関して初めて公開の公式の場で技術論争が行われました。
法廷では原告住民側が優勢だったといわれていましたが、判決は「原子炉設置許可は政府の権限」として原告の請求は却下されました。
1978年のことです。
以後、原発訴訟はほぼすべて原告敗訴です。
かなり深刻な原発事故が発生しても、裁判官は姿勢を変えませんでした。
なぜでしょうか。
自立していないからとしか私には思えません。

厚労省の村木さんの冤罪事件はどうでしょうか。
私には、単なる冤罪ではなく、裁判の立地点の問題だと思います。
小沢訴訟は、その同じ特捜部が取り組んだ訴訟です。
基本から問い直すべきだろうと思います。
検察審査会は裁判員制度と同じく、司法の手段化のための仕組みです。
透明性は確保されずに、むしろ管理下におかれているように思えてなりません。

私の意識では、問題は小沢さんが何をしたかなどという話ではありません。
裁判の根幹が問われているのです。
さらにいえば、日本の民主主義が問われています、

小沢さんが不正なお金のやりとりをしているかどうかなどは、私には瑣末な話です。
当時の時代環境から言えば、多かれ少なかれ多くの人が似たようなことをやっていたはずです。
小沢さんもいろいろとやっていたでしょう。
それこそが、日本の「政治」だったのですから。
それに数十億円などそんな金額は政治の誤差でしかありません。
原発事故がどのくらいの被害を出したかを考えれば、何が重要かはわかるはずです。

話がそれてしまいましたが、裁判が官僚や資本家の手段に使われすぎているように思います。
もちろん、裁判は「正義のため」ではなく「統治のため」の制度です。
政治がそれを利用するのは仕方がありません。
しかし、今の裁判を支配しているのはだれなのか。
私もウォルフレンの「誰が小沢一郎を殺すのか?」を読みましたが、衆愚政治やポピュリズムは恐ろしいです。

大嫌いな小沢さんではありますが、ここは頑張ってもらいたいです。
しかしちょっと無理そうな気配を今日の記者会見では感じました。
残念でなりません。
日本はまた80年前の繰り返しの局面に入りだすような不安があります。

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■ニューヨークの若者のデモに思うこと

ニューヨークのウォール街から始まった、経済格差や高い失業率に異議を唱える若者たちのデモはさらに広がっているようです。
「富裕層に課税を! 貧困層に食べ物を!」というスローガンは、アメリカに限ったことではありません。
日本も、若者にとって働く場が見つけにくい社会になっていますが、アメリカも、たぶんEUも事態は同じでしょう。
ITの発展は、人の仕事を大きく減らしているからです。
景気が回復しても、雇用は回復しないのが、昨今の経済状況です。
ジョブレスリカバリーという言葉がありますが、好景気と雇用量とはいまや切り離されているのです。
それに気づかずに、「雇用を増やそう」などと騒いでも、何の意味もありません。
発想を変えなければいけません。
最近の就労支援予算が、どれほど馬鹿げた使われ方をしているかはご存知の方も多いでしょうが、本当に働きたい人のためにはなっていないことも少なくありません。

アメリカのデモのスローガンは私には間違っているように思います。
「富裕層に課税を! 貧困層には仕事を!」でなければいけません。
人は「パン」のみでは生きられないからです。
しかし、仕事は「与えられるもの」ではありません。
仕事を雇用と考えたり、お金を得るものと考えたりしていては、なかなか解決策は見えてきません。
そうした発想の呪縛から解き放たれれば、世界は全く変わってきます。
自由に生きていた人たちを雇われ人に変えたことで、近代産業は発展しました。
見事なほどにみんな飼いならされてしまい、仕事といえば、賃労働、雇用労働ということが常識になってしまいました。
しかも、女性の社会進出というきれいな言葉で、女性さえも賃労働者になってしまいました。
賃労働者はほぼ必ず、「金銭消費者」になっていきます。
その循環から抜け出たのが「富裕層」です。
富裕層の「仕事」概念と賃労働者のそれとは全く違うはずです。

人は弱いもので、最近の富裕層はちょっとばかし欲張りすぎてきました。
フランス王朝貴族やロシア王朝貴族ほどではないかもしれませんが、私には状況は似て見えてきます。
リビアのカダフィもそうでしたが、人はみんな弱いものです。

アメリカのデモの広がりはどうなるのか。
そのスローガンから、1960年代のデモとは全く違うように思います。
たぶんさほどの広がりは怒らずに、終息するでしょう。
ネグリのいうマルチチュードが前向きに動き出すには、もう少し時間がかかりそうです。
1960年代がなつかしいです。

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2011/10/05

■節子への挽歌1494:私以外はみんな元気そうです

残念ながら昨夜は節子の夢は見ませんでした。
夢を自在に操れるところにまで、まだいけていないのです。
まあ自由に操れる夢であれば、それは「夢」とはいわないでしょうが。

今日はとても寒い日になりました。
それで娘がいない間に和室にコタツをたててしまいました。
私はコタツが大好きなのです。
いつも節子には、まだ早いと言って止められていましたが、それにしてもこんなに早くコタツを出したのは初めてかもしれません。
寒いばかりでなく、今日は朝から雨です。
それでオフィスに行くのをやめて、たまっている仕事に取り組みだしましたが、寒いのでやはりコタツにはいりたくなりました。
コタツに入ると仕事をする気分が出てきません。
そこで最近気になっている友人に電話することにしました。
電話をするとまた引っ張り出されかねないので、あんまりしたくはないのですが、「便りがないのは元気な証拠」ともいえない友人も少なくないのです。

まずは小学校時代の同級生のS。
一人住まいで、前回の電話ではあまり元気がなかったのですが、今回は元気そうでした。
まずは安心。
しかし案の定、会うことになりました。

続いて、大阪にいるMさん。
Mさんは私より年上なのに今年から大学院に通いだしているのです。
そのせいか、この半年、全く連絡がなくなっていました。
ダウンしたのではないかと気になっていたのですが、これまた元気でした。
話の成り行き上、大阪まで会いに行く約束をしてしまいました。
だから電話はしたくないのです。

3番目はさらに気になっていた難問を抱えているBさん。
今度こそ少しどきどきして電話しましたが、やはり元気でした。
心配していたのが損した気分です。

要するに、一番元気でないのは私だということがわかりました。
元気だったら元気だといってこい、と言いたい気もしましたが、まあ元気で何よりです。

そういえば、広島のOさんから、寒いのでコタツが登場、というメールが今日、届きました。
Oさんももう半年以上、連絡がありませんでした。
とても元気そうで、家の近くには沢蟹がたくさんいるよと書いてありました。
私の挽歌を読んでくれているようです。


それにしても今日は寒いです。
娘に頼んで夕食はあったかいうどんにしてもらいました。
予定していた仕事は、また先送りになってしまいました。
困ったものです。

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■サブガバメントとしての原子力共同体

九州大学副学長の吉岡斉さんの科学技術観は共感できるところが多く、その著作には教えられることが多い方のお一人です。
いまから10年以上前に出版された「原子力の社会史」(朝日選書)は、日本の原発行政や原発研究への冷静な評価をしている本です。
この本を読んだことのある人であれば、今回の福島原発事故に関しても、想定外などという言葉は使わなかったでしょうし、管政権の枝野さんのような失策はしなかったでしょう。
もう一つの「政府」に対抗した対策をうてば、事態はここまでにはいたらなかったという気がします。

吉岡さんの議論は、日本の原子力開発が、国家政府と切り離された「サブガバメント」に牛耳られているという認識からスタートします。
しかも、そのサブガバメントは二元体制になっており、それぞれが互いの権益に必要以上には口を出さない構造になっているといいます。
さらに悪いことに、日本では大学の学者たちはそのいずれかを補佐する役割に甘んじ、結果的にはいずれかに組み込まれているというのです。

二元体制とは、「電力・通産連合」と「科学技術庁グループ」です。
その「2つのサブグループから成る原子力共同体が、原子力政策に関する意思決定権を事実上独占し、その決定が事実上の政府決定としての実効力をもち、原子力共同体のアウトサイダーの影響力がきわめて限定されてきた」と吉岡さんは上記の著書に書いています。
ではその原子力共同体は、どこと結びついていたのか。
それはともかく、こうした体制への舵を切ったのは、中曽根さんの時代です。
日本の現在の不幸は、私にはすべて中曽根政権から始まったような気さえしています。

原子力共同体は、それまでの日本の地域住民共同体を壊すことによって、原発を広げてきました。
そこでばらまかれたのは「お金」です。
いまも上関町でばらまかれていますが、「お金」は麻薬と同じで一度その味を覚えたら抜け出られずに、身を滅ぼします。

細野さんや枝野さんの原発事故対策にまつわる発言を聞いていると、いつも危うさを感じます。
彼らが、もう一つの政府の広報マンになりはしないかという危惧です。
まあ私の杞憂だとは思いますが、原子力共同体の強さは見くびれません。

吉岡さんの「原子力の社会史」は名著だと思います。
その改訂版がまもなく出版されるそうです。
ぜひ多くの人に読んでほしい本です。
私も今日、予約しました。

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2011/10/04

■節子への挽歌1493:節子がいないので疲れます

節子
お風呂の湯ぶねで寝てしまいました。
最近、ちょっと疲れが溜まっているのでしょうか。
節子がいた頃に比べると、私の行動量は半分どころか、三分の一にも満たないでしょう。
にもかかわらず、疲労感は倍増しています。
充実感や達成感がないからかもしれません。

人は何かのために生きるのではなく、誰かのために生きる、というのが私の考えですが、その「生きる目標」を与えてくれた「誰か」がいなくなると、どうも生きる意欲が損なわれます。
意欲がないと、同じことをやっていても疲労感は違います。
本来はワクワクすることでさえ、時にむなしくなります。
ワクワクしないわけではありませんが、節子がいた頃とは何か違います。
「ハレ」の日はなく、毎日が「ケ」なのです。

節子はいつも私に言っていました。
「たまにはすこしゆっくりしたら」と。
いまなら節子はこういうでしょう。
「たまにはすこし急いだら」と。
それほど時間を無駄にしています。
だから忙しくなるのです。

充実感がないまま、疲労感が溜まっていきます。
お風呂に入っても身体を洗う気にもなりません。
そして今日は湯ぶねで寝てしまい、気がついたら15分も寝ていました。
あのまま眠り続けられたら、とも思います。
ちょっとあぶない兆候です。

生活が単調になってきたということもあります。
節子がいた頃と違い、いまや私が真ん中にいる生活ですから、どうしても私好みのものになります。
節子がいた頃の私たちの生活は、お互いに相手の生活に付き合っていましたから、生活に変化がありました。
その変化がなくなり、私の生き方をさえぎる人もいません。
さえぎる人がいなければ、あえて何かをやろうともしなくなるものです。
そして、ますます無気力になる。

伴侶を失った人はみんなこうなのでしょうか。
私の周辺には伴侶を失った人は少なくありませんが、その人たちも私と同じなのでしょうか。
ちょっと違うような気もします。
それとも本当は私と同じなのに、見栄を張って、しゃんとしているだけなのでしょうか。
まあ、私もこの挽歌を読んだりしなければ、しゃんとしているように見えるかもしれません。
しかし、本当は疲れきって、ようやく生きているというのが実態なのかもしれません。

節子に無性に会いたくなることが、時にあります。
今日は、その「時」です。
そう思いながら、この挽歌を書いていたら、急に節子がとても近くにいるような気がしてきました。
目の前にある節子の写真の温もりが伝わってくるようです。
節子が会いに来ているのかもしれません。
今夜は、夢に節子が出てくるかもしれません。
今日は早く寝ましょう。
長い夢が見られるように。

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2011/10/03

■節子への挽歌1492:「くじのせいだ」

節子
「一枚のハガキ」の映画は、新藤監督の作品らしく、見終わった後も、時間が経つにつれてむしろ心の底からじわじわと思いが染み出してきます。

映画のキーワードのひとつが「くじで決まった」ということです。
友子のつれあい(森川)が戦地に派遣されることになり、その仲間の啓太が終戦まで戦地に行かずにすんだのは、移動先を決める「くじ」の結果です。
知子は夫の死を「くじ」のせいにして、自分を納得させようとします。
そこに意味を持たせたくないからです。
啓太は、しかし、「くじ」では納得できません。
なぜ自分が生き残ったのかを煩悶します。
実際にはそんなに簡単ではなく、そうした思いがそれぞれに交差しているのですが、友子は繰り返し「くじのせいだ」と叫びます。

愛する人を奪われた人は、たぶんみんな、「なぜ自分たちだけ」という思いに苛まれます。
自分たち、とりわけ自分に、落ち度があったのではないかと煩悶します。
そしてとても惨めな気持ちになってしまうのです。
それが世間に対する「負い目」にまでなることさえあります。
そうした体験をすると、さまざまな「弱い立場の人」たちと、少しだけ気持ちを分かち合えるようになります。
そして、それができるようになれば、惨めさはしなやかさに変わります。
いささか図式的に書きましたが、これが私のこの4年の気持ちの変遷です。

しかし、友子はそんなまどろっこしいことはしません。
啓太が言った「くじ」という言葉に、解決策を見出すのです。
ちなみに友子の義理の両親の自己納得の言葉は「運」でした。
ここでは、「運」も「くじ」の同義語です。

「くじ」は、言い換えれば「定め」です。
個人の問題は、そこでみんなの問題になるわけです。
くじに当たる意味合いが反転します。
残された人を生かすために、くじを当てた人は従容と「定め」に従うわけです。
そこで「惨めさ」は「誇り」に転化できるかもしれません。
それがいわゆる「英霊」思想です。

「一枚のハガキ」を観ながら、そんなことを考えていました。
節子との別れは「定め」だったのだろうか、と。
そう考えると、いろんなことが意味ありげにつながってきます。
節子との、あの別れは、節子に会った時から、いや会う前から決まっていたという物語ができそうです。
しかし、それこそが「英霊発想」なのかもしれません。

節子との別れが、くじによるものであるかどうかは、瑣末な話です。
ただただ悲しむこと、悼むこと、思い続けること。
それこそが大切なことだと改めて思います。
やはり新藤監督の世界は、私の世界とは違うようです。

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■朝霞公務員宿舎問題で思うこと

朝霞の公務員宿舎がまた凍結になりました。

この問題の報道を見ているとつくづく発想の次元が私とは違っていることを感じます。
既存の公務員宿舎の売却額と朝霞の建設費用の差額が被災地復興の原資にできるなどと言う、もっともらしい話を財務省は主張していますが、これは詐欺と言っても良い話です。
財務省お得意の数字の詐欺です。
それを間に受けている新聞記者はどういう感覚をしているのだろうかと思います。
被災地支援を考えたら、この話の中にはたくさんの原資があります。
まず朝霞の建設資金は全額が原資になります。
次に、既存の公務員宿舎は、そんなに高額で売れるのであれば、すべて即刻販売しましょう。
それはすべて原資になります。
いま宿舎に入っている人はどうするか。
自分で民間の貸家を探せばいいでしょう。
経済活性化につながります。
東電の社員に社員住宅を売却しろという話と同じです。
公務員給与はかつてとちがい決して低くはありません。
次に、公務員宿舎の家賃を一般何に値上げしましょう。
すぐに上げるのが無理なら、4万円は利益供与の水準ですから、贈与税を賦課しましょう。
これは全国のすべての公務員に適用します。
一過性のものではないので、かなりの原資が得られます。

既存施設の売却費と新規建設費とを比べるというような、おかしな話に騙されてはいけません。
それに、この朝霞の話は一つの事例です。
ほかにもこれから着工されようとしている公務員宿舎もあるようです。

この問題で思うのは、問題の立て方がいつも間違っているように思えることです。
財務省が賢いのではなく、それを受ける人がただ単に愚かなだけだと思いますが。
政治家は本当に勉強してきたのでしょうか。
衆愚政治と言う言葉がありますが、今の日本は愚者政治になっているような気がしてなりません。

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■節子への挽歌1491:沢蟹の棲家への入居者募集中

昨日は実現しなかった夢のことを書きましたが、私にはまだ実現していない夢もあります。
それはわが家の庭の池に、沢蟹を定住させることです。
節子が元気だった頃は、毎年、福井の節子の姉の家に行くと必ず沢蟹を見つけて連れてきました。
そして庭の池に放すのですが、すぐに居場所が分からなくなり、二度と姿を見つけることができません。
最初の頃は、節子はあまり本気に受け止めていませんでしたが、次第に理解してくれて、福井への旅行の度に沢蟹探しに付き合ってくれました。

茨城にも探しに行ったことがあります。
それを思い出して、今日、茨城に沢蟹探しに行きました。
節子と以前、一緒に行ったあたりですが、やはり沢蟹がいそうなところにまで行き着けませんでした。
節子がいないのもさびしいですが、沢蟹がいないのもさびしいです。

節子は植物と一緒に暮らすのが好きでしたが、
私は、沢蟹に限らず、小さな生き物と一緒に暮らしたいと思います。
昆虫が飛んできたら、家の中に入れたいというタイプです。
もちろん家の中では昆虫は生き続けるのが難しいので、分別がついてからは、迷い込んだ昆虫は外に出してやるようにしていますが。

庭の池に沢蟹が定着するはずがないと節子はいつも笑っていました。
しかし、笑いながらも私の沢蟹取りにはいつも付き合ってくれましたし、姉夫婦にまで頼んでくれていました。
まあ姉夫婦は、私の気まぐれの一つで、さほど真剣ではないと思っていたと思います。
しかし、私は正真正銘、沢蟹と共に暮らしたいのです。
水槽で飼われた沢蟹ではなく、池に自発的に定着した沢蟹とです。

昨年、敦賀の姉から「カニを送ったから」と電話がありました。
こんなうれしい電話はなかったのですが、送られてきたカニは、沢蟹ではなく、越前蟹でした。
カニは蟹でも、越前蟹では食べることしかできません。
がっかりしました。
娘たちは喜んで食べていました。まあ、私も食べましたが。

私が好きなのは、毛蟹でも越前蟹でもタラバ蟹ではなく、生きている沢蟹なのです。
蟹を食べるのが好きなのではなく、蟹と共にあることがうれしいのです。
前世のいずれかでは、蟹だったのかもしれません。

どなたか我孫子の近くに、沢蟹が生息している場所をご存知ありませんか。
連れてきた蟹は決して食べたりはせず、棲みやすい棲家を提供します。
自由を拘束することはありません。
食べられる蟹はいりません。

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2011/10/02

■節子への挽歌1490:庭園カフェ

この2日間、地元で手づくり散歩市というのがありました。
地元の手づくり工芸などに取り組んでいる人たちがショップを出して、そこを歩いてもらおうというイベントです。
わが家はメイン会場の通りとは少し離れていますが、庭にある娘のスペインタイル工房が会場になっています。
それで私は来てくださった方に庭で珈琲のおもてなしをさせてもらうのです。
節子がいたら、きっとやりたがるだろうなという思いがあって、始めました。
しかし、節子がいないせいか、それこそ風情が出てこないのです。

今年の手づくり散歩市は、残念ながらあまり「散歩市」にはなりませんでした。
天気が悪く寒かったこともあるのですが、それ以上に、コンセプトがあいまいで、なにやら「手づくりショップ村」が数か所にできただけの感じになってしまいました。
わが家に来た人も、どこが「散歩市」なのかわからないと怒っていました。

まあそれはともかく、寒い中をがんばって、私の担当のカフェは一応2日間開店しました。
フェイスブックを見て来てくれた人など、初めてわが家を訪ねてくれた人もいます。
しかし2日間を通じて、今年珈琲を飲んでくれた方はたった11人でした。
もっとも時間的にはほぼいつも誰かがいました。
お客様に出した珈琲は11杯ですが、私がその相手をしながら飲んだ珈琲もほぼ同じです。
おかげで胃がむかむかしています。

節子がいたらたぶんお客様は多くなったでしょう。
多いだけでなく賑わったことでしょう。
なにしろ私に会いに来る人は、あんまりスペインタイルに関心がなく、なかには工房にも入らずにカフェ目的の人もいるのです。
スペインタイル工房と私のカフェは結びつかないのです。
節子の友だちだったら、珈琲よりもスペインタイルに興味が行くでしょう。
それに節子のことですから、がんばってロールケーキを焼くでしょう。
節子はそういうのがとても好きでした。

私が会社を辞めた頃、節子には喫茶店でもやろうかと言ったこともありますが、やらないでよかったです。
売上が上がったと喜んでよく調べてみたら、私がその売上の半分だったというようなことにもなりかねません。
まさに「花見酒の経済」で、倒産は間違いありません。
しかし、だれもお客様が来ない喫茶店で、節子と一緒に珈琲を飲む老後生活を体験したかったです。
それもまた、私たちにとっての実現しなかった夢の一つです。

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2011/10/01

■節子への挽歌1489:「何の風情もありません」

映画「一枚のハガキ」に関連した昨日のつづきです。
ハガキに書かれていたのは次の文章です。
「今日はお祭りですが、あなたがいらっしゃらないので、何の風情もありません」
この言葉は、愛する人を失った人の共通の思いでしょう。
音羽信子さんを見送った新藤さんの真情のような気がします。

昨日、ほぼ10年ぶりに訪ねてきた人がいます。
後から変わっていませんねとメールが来ました。
しかし、私は変わりました。
見える人には見えるでしょうが、節子がいた頃の私と今の私は、ほぼ別人と言っていいでしょう。
愛する人を失った人ならきっとわかると思います。

何が変わったのか。
私にとっては「世界の風情」が変わりました。
世界にとっては「私の風情」が変わったと思います。

昨日は湯島のオフィスで、オープンサロンという、誰でも歓迎のお茶のみ雑談会をやりました。
節子と一緒に始めたものです。
節子がいなくなった後、止めていましたが、再開してほしいという声があったので再開しました。
しかし、形は同じでも、節子がいた頃とはたぶん似て非なるものです。
私にとっては、やはり「風情がない」のです。

「あなたがいらっしゃらないので、何の風情もありません」
とても、心に響く言葉です。
愛する人のいない世界は、驚くほどに「平板」なのです。
「風情」も「意味」もなにも感じられない。
ただそこにあるだけの世界になってしまいます。
「意味のない世界」を生きることは、疲れるものです。

映画の話に戻れば、主人公の知子(森川の妻です)は「風情」ある人生を取り戻します。
しかし、それを導いたのもまた、愛する伴侶だったのです。
それは示唆に富むメッセージです。
新藤さんがまた映画を創った意味が少しわかったような気がしました。

お祭もイベントも集まりも、風情はないかもしれませんが、風情がないと感ずる心の世界には、まさに「風情」がある。
一度、体験した「風情のある世界」はもしかしたら、自分では気づかないだけで、実はそのまま残っているのかもしれません。
つまり、「風情のないことを感ずる風情」です。
なにやら禅問答のようになってしまいましたが、「風情」という言葉が、いま心を覆っています。

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