■さびしそうな仏たち
2日間、奈良を歩いてきました。
たくさんの仏たちに会ってきましたが、私が会いたかった仏たちの半分は地震や火事から守るための新しい空間に移っていました。
興福寺の阿修羅、三月堂の月光菩薩、法隆寺の百済観音、中宮寺の弥勒菩薩、みんな本来の場所にではなく、安全なところに展示されていました。
仏の気持ちになればわかりますが、とてもさびしい話です。
もはや昔のようなオーラは感じられず、ただ単に展示品でしかないような気がして、興ざめでした。
こうした動きは最近また一段と進んでいるようですが、民と共にあった仏たちも、いまや美術鑑賞品や歴史遺産としての「物」になってしまってきているのでしょう。
奈良に行く前に、京都の東寺に寄りました。
先日、空海展での立体曼荼羅を体験していましたが、それとの違いを実感したかったからです。
幸いにすべての仏たちが戻ってきていましたが、やはりそこから生み出される時間を超えた空気は、やさしさが感じられました。
仏たちも生き生きしていたように思います。
そう思うのは、懐古趣味なのかもしれませんが、仏たちは安置されていた場所とのつながりがあるはずです。
火事があったら燃え尽きてしまう。
大地震には崩れ去ってしまう。
それが仏たちの本望のように思いますが、そもそも「国宝」とか「重要文化財」などと決めてしまうことの意味はなんなのでしょうか。
これまではなんの疑問も抱いてきませんでしたが、考えてみるとそこから間違っているのかもしれません。
薬師寺の白鳳伽藍はまだ工事をしていました。
私の現世中には、平安な薬師寺はもう体験できないようです。
寺社とはいったい何なのか、いろいろと考えさせられる旅でした。
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