■ネクタイをしない人が増えていますね
今日、久しぶりに新宿から御茶ノ水まで中央線に乗りました。
背広を着ている男性の多くがネクタイをしていないのに気づきました。
ちょうど適度な混み具合だったのですが、私の観察では(場所も移動して確認しました)、背広を着てネクタイをしている人が2割程度でした。
予想外に少ないのです。
ネクタイをせずに、ワイシャツの2番目のボタンまではずしている人もいました。
もうクールビズの時期は過ぎたはずですが、一度、ネクタイをはずした人はノーネクタイの快適さをはなしたくないのかもしれません。
小学生の頃読んだ佐藤紅録か山岡壮八の小説に、日本人はふんどしからネクタイへと、締める場所を変えたためにおかしくなった、というような文章があったのが、ずっと忘れられないのですが、今度は「締めること」そのものを捨てるのかもしれません。
私はほとんどネクタイをしませんが、時に講演をさせてもらったりする時には、ネクタイをするようにしています。
悲しい話ですが、背広を着てネクタイを締めると、なぜか気分がしゃんとするのです。
組織人としての洗脳からまだ抜けていないようです。
人は着るものによって意識が変わります。
今年の夏は、Tシャツが多かったのですが、ある若者から、佐藤さん、まだ入院気分ですね、と指摘されました。
その直前まで入院していたのですが、たしかに入院中と同じ服装で、オフィスに通っていました。
少し反省しました。
おしゃれでなくてもいいですが、着るものへの注意は大切です。
私にはそれがあまりできていません。
勝手なもので、私はネクタイが嫌いですが、国会の中継を見ていて、ネクタイをしていない議員はとても気になります。
議員にとっては正式の職場とも言える国会ではせめてネクタイをしてほしいと思うわけです。
ネクタイは、たしかに首を締めるわけですが、それはある種の緊張感をもたらします。
そうしたメリハリをもっとつけるべきではないか、と思うわけです。
まことに身勝手でではありますが。
と書きながら、どこかに自分でも納得できない気分もあります。
ハカマであればともかく、欧米の文化であるネクタイをしないとシャンとしない、あるいはシャンと見えないと思う、自分の意識とはいったい何なのでしょうか。
もしかしたら、私自身すでに欧米文化の隷属しているのではないか。
文化を大切にすることは難しいことです。
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