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2011/10/31

■節子への挽歌1520:妄想

最近また、シンクロニシティがよく起こります。
先週、京都で友人と「比叡御膳」という精進料理を食べながら、比叡山で友人の得度式にでた話をしていたら、携帯電話がなりました。
なんとその友人からの、久しぶりの電話でした。
しかも、東京の私のオフィスの前からの電話でした。
こうしたことがよく起こるのです。

昨日、自宅である探し物をしていました。
結局、それは見つからなかったのですが、代わりに思わぬものを見つけました。
20年ほど前にNHKテレビで放映された「チベット死者の書」の録画テープです。
実はこれもあることで、数日前に思い出して、その記録の本を再読したのですが、テレビ番組も見たいなと思っていた矢先でした。
まさか自分で録画していたとは思ってもいませんでしたし、テープが残っているとも思っていませんでした。
早速、昨夜、そのテープを見ました。
先日、読んだ本とほぼ同じ内容でした。
しかし、映像で見るとまた印象は違います。
死者の姿やホスピスのやりとりが、生々しく伝わってきました。

そういえば、先週もなぜか奈良を歩いてきました。
奈良では死者には会いませんでしたが、たくさんの仏に会ってきました。
もしかしたら、あれも仏たちが私を呼んでくれていたのかもしれません。
私は、仏たちに会って元気になるつもりでしたが、記憶に残っているのは、仏たちの悲鳴です。
そして、昨夜、20年前のテレビ番組を見ながら、先週奈良で会った阿修羅や薬師や月光菩薩たちが安置されていたのは、仏たちのホスピスだったのではないかという気がしてきました。
妄想としかいえませんが。

しかし妄想はさらに広がります。
私はいま、自分では気づいていなのに、ホスピスにいるのではないかという感覚におそわれました。
さらにもしかしたら、バルドにいるのではないか。
彼岸に旅立ったのは、節子ではなく私なのではないかという感覚です。
なぜか私は、死に対する恐れの感覚は皆無なのですが、そう考えるとその理由もわかります。
こうして妄想は際限もなく広がりました。

風邪が長引いて、頭が朦朧としているためか、そんな妄想に昨夜はうなされていました。
そして、彼岸も此岸もそう違いはないのだろうなと思えるようになりました。
私の意識も、この身体から早く自由になりたいです。
いや、ほんとうはもう自由になっていて、気がついていないのは私だけなのかもしれません。

まだどうも妄想の世界から抜けられていないようです。
今日も1日、休むことにします。

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