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2011/10/12

■節子への挽歌1501:「バルド・トドゥル」

節子
あなたが逝ってしまってから、今日で1501日目です。
あっという間の1500日であり、長い長い1500日でもありました。

チベット仏教の有名な経典に「バルド・トドゥル」があります。
「チベット死者の書」として有名な経典です。
前に一度、言及したことがありますが、「バルド」は中間の状態を意味します。
中間とは、生と生の中間です。
人は死ぬと、バルドの状態に入り、そこからまた新しい生に移っていくというわけです。
そのバルドの世界にうまく入れるように、チベット仏教では死に臨む人の耳元で、この経典を語り聞かせます。
それは死後49日間にわたって行われるのです。
「トドゥル」とは、耳で聞いて解脱するという意味だそうです。

生は、ずっと「バルド」にとどまるわけではありません。
そこからまた生の状態へと移ります。
チベット仏教では「転生」が大きな意味を持っています。
最高僧であるダライ・ラマも転生を繰り返します。
転生を示す証拠は、これまでにもたくさん語られています。

節子は今どこにいるのか、を問うことは意味がありません。
節子は、おそらく「いまここにいる」からです。
49日を過ぎて、解脱できれば、時空間を越えた彼岸へと移ります。
それはこう考えていいでしょう。
「個」としての生命が、一度、「大いなる生」に包み込まれて、次の生にそなえる状態に入る。と。
私は、彼岸とは大いなる生そのものではないかと、最近考えるようになりました。
大いなる生は、私を含む全宇宙を覆っているとしたら、彼岸は世界そのものです。
ただ現世のようには、個々の存在、個々の生命体にはわかれていないために我々の感覚では認識できないだけです。

一昨日見たテレビドラマの「風をあつめて」の最後のシーンは、娘を見送った主人公が、以前家族で一緒に見た阿蘇の火口を見て自転車で坂道を走っていくのですが、それにかぶせて、娘がいまも一緒にいるから大丈夫だというような主人公のナレーションが流れます。
とても素直に、心に入りました。

節子がいなくなって1501日。
よくぞここまで私も生きつづけられたと思います。
挽歌ではメソメソしているように感ずるでしょうが、挽歌を書いていない時はそれなりに元気です。
明るいしよく笑うし、決してくらくはありません。
それは節子が一緒にいることを実感できているからです。
だからこそ、時に無性に会いたくなることもあるのですが、会えなくても節子のぬくもりや気持ちを実感できることもあるのです。
だから1500日、持ちこたえられました。
そして気づいたのですが、私にとっても今は「バルド」なのです。
そしてもしかしたら、私は気づいてはいませんでしたが、ずっと耳元で節子が語っていたのかもしれません。
だから私も「バルド・トドゥル」の恩恵を得られたのではないか。
そんな気がします。

もう一度、昔読んだ「チベット死者の書」の解説本を読み直してみようと思います。

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