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2011/10/25

■節子への挽歌1514:メメント・モリ

節子
世界の各地で自然災害による死者が出ています。
タイでは洪水で、トルコでは地震で、多くの死者が出ています。
自然災害だけでなく、事故による死亡報道も毎日たくさん報道されています。
今この瞬間にも、予期せぬ死を迎えている人がどこかにいるでしょう。
世界の人口と平均寿命から計算すると、1年に1億人が、1秒に3人が死を向かえていることになります。
死は、私たちとは隣り合わせなのです。
しかし多くの人は、死のことを考えるのを避けているといわれています。
これは「近代」の特徴かもしれません。
近代は、自然を克服しようとした流れの中で、死をも視野から追い出したのです。

1960年代にアメリカで コンシャス・ダイイング(意識して死を迎えよう)という主張が広がり、ダイイング・プロジェクトなるものが話題になったことがあります。
1960年代のアメリカにはさまざまな新しい風が起こり、歴史の大きな岐路にあったと思いますが、残念ながらそれは本流にはならず、サブカルチャーで終わりました。
私はそうした動きから影響を受けたと思いますが、ダイイング・プロジェクトには違和感がありました。

メメント・モリという言葉があります。
最近はかなり使われるようになってきました。
ラテン語で「自分が(いつか)必ず死ぬことを忘れるな」という意味の警句です。
もっとも最近は、「死を想え」という意味が強調されています。
藤原新也さんが同名の本を出版して話題になったのが1983年です。
その本には、死を語る衝撃的な写真が収められているそうですが、この種の本は、私はいまだに手に取ることができません。

ダイイング・プロジェクトでも、実際の死体を見ながら、それが朽ちていくのを想像するという瞑想プログラムがあると聞いていますが、私にはできないことです。
スイスのチューリッヒ郊外の墓地に連れて行ってもらった時の衝撃は今でも忘れられませんが、私にはメメント・モリは受け付けられないのです。

前に、エラン・ヴィタール(「生の躍動」)のことを書きました
私はやはり、「生」を基本に生きたいと思います。
メメント・モリではなく、メメント・ヴィタ(「生を想え」)が私の指針です。
生きているのに死んだような生き方をしたくはありませんし、
心でもなお生きていることを信じたいと思うのです。

節子は今もなお、私と共に生きていますので。
死は、生の一つの節目でしかないと思っています。
主客転倒してはいけません。
それは教団宗教や生政治や近代医療の罠でしかありません。

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