■節子への挽歌1515:メメント・ヴィタ
節子
メメント・モリよりもメメント・ヴィタの発想のほうが良いということを昨日書きましたが、
ラテン語では、「生きる」という言葉の動詞の完了形が「死」を意味するそうです。
死とは生をパーフェクトなものにするという認識です。
もしそうなら「死」は「生」の一部です。
つまり、「死」が「生」の目的ではありません。
「死」が「生」の目的であれば、「生」は「死」の一部ということになるからです。
節子が進行性の胃がんだと分かった時、知人の医師は「死に方」の問題ですとアドバイスしてくれましたが、それには賛同しかねます。
仮に医学はそうであっても、医療はそうであってはいけません。
医師がいうべき言葉ではないはずです。
人は死ぬために生きているわけではありません。
あえて言えば、生きるために死ぬのです。
最後までどう生き抜くか、そう考えるのが素直な発想です。
「ホスピス」は行ききるための施設といっていいかと思いますが、そうであればそこにはその思想がなければいけません。
メメント・モリは、盛者必衰や日々を大事に生きることを諭す言葉とも言われます。
どんな人にも必ず死はやってくる。
明日、死ぬかもしれないのだから、毎日を大事に生きなければいけない。
そういう意味も含まれています。
あるいは仏教的な諸行無常や色即是色の哲学も含意されているでしょう。
しかしそれらはすべて「生き方」の問題であって、「死に方」の問題ではありません。
メメント・モリが、直接には「自殺」を想起させることはないでしょうが、死こそ生なのだという深い含意は簡単には表象しません。
だとしたらやはり、メメント・ヴィタです。
生の輝きを思い起こすことこそが、生を完結させます。
死を超えた節子は今なお、私の心身の中では躍動する生を維持しています。
生きている節子を思うだけで、私の心身は元気になります。
メメント・モリからメメント・ヴィタへ。
それだけで、もしかした、自らも、そして死者も、救われるかもしれません。
死者は彼岸で生きているのですから。
死は生の、、ほんの一瞬の一部でしかない。
そう思えるように、ようやく最近なってきました。
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