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2011/10/21

■節子への挽歌1509:ナーランダの月

父娘旅行の2日目は、斑鳩と西の京です。
ゆっくりと回る予定で、朝早くホテルを出ました。
斑鳩の法隆寺に着いたのは8時40分、まだ始まったばかりで、門前ではお寺の人たちが掃除をしていました。
修学旅行生やツアー客もまだ来ておらず、東伽藍はゆっくりと見る事ができました。
東伽藍から出ると大宝蔵院なるものが出来ていました。
百済観音がおさめられていましたが、やはり展示品になっているような気がしました。
だんだん滅入ってきましたが、夢殿から中宮寺に回って、驚きました。
中宮寺は完全な展示会場になっていました。
受付の人が素朴な人だったのが救いでしたが。

もう少しゆっくりと思っていた法隆寺もただただ拝観しただけで、西の京に向かいました。
薬師寺は西塔ができてから節子と訪ねましたが、なにかおかしな空間になってしまった失望感だけが記憶に残っています。
少しは落ち着いているかなと思っていたら、今度は東塔の補修工事が始まっていました。
白鳳伽藍はまさに工事現場でした。
弥勒の世界です。いまの救いはありません。
そういえば、薬師寺の講堂には弥勒が安置されています。
弥勒は未来仏です。
憧れだった薬師三尊もオーラはなく、小さくなっていました。
玄奘三蔵院というのも出来ており、平山郁夫画伯の壁画が公開されていました。
私は平山さんの絵は苦手ですが、最後に1枚、気になる絵がありました。
ナーランダの月です。
Moon

ペルシアやゾロアスターを感じさせる不思議な絵で引き込まれてしまいました。
平山さんの絵はあまりに乾いているので私には伝わってくるものがないのですが、この絵には彼岸に通ずるものを感じました。
そのうちに、そこに一人の僧が描かれるでもなく、描かれるでもなく、ぼんやりと浮かび上がってくるのに気づきました。
気になって、係の人に訊いてみました。
そこになんとなく描かれているのは高田好胤さんだそうです。

こういう話です。
白鳳伽藍を写経勧進による浄財で再建しだしたのは管主になった高田師ですが、彼は西域を一緒に歩いた平山さんに壁画を頼んだのだそうです。
しかし、その壁画が完成し、魂を入れる直前に高田さんは亡くなられてしまいます。
平山さんは、ほとんど完成していた壁画を見てほしいと高田さんに勧めたそうですが、仏に見せる前に自分が見るわけにはいかないと高田さんは言われたそうです。
そして残念ながら、高田さんは生前に壁画を見る機会を得ることなく旅立ったのです。
高田さんにとっては、現世など一瞬の間であり急ぐこともなかったのでしょうが、平山さんは、壁画の最後のナーランダの月(ナーランダの学校は三蔵法師が行き着いて学んだところです)の中に高田師を描き、絵の中から壁画を見てもらうようにしたのだそうです。
お2人の関係が伝わってきて、私は初めて、平山郁夫さんの絵に興味を感じました。
節子は、私と違って、平山さんの絵が好きでしたし。

絵の中で高田さんに再会するとは思いもしませんでした。
高校の修学旅行で薬師寺に来た時に、私も高田さんの説明を直接聴いた一人です。
実は後で手紙も出したことがあります。
仏を展示品にしていいのかという問いでしたが、その話はいつかまた書くことにします。

高田さんの話を聞いて少し救われた気持ちで、唐招提寺に行きました。
唐招提寺は、改修工事がなされたはずなのに、雰囲気はそう変わっていませんでした。
節子と一緒におそばを食べた山門前のお店もまだ残っていました。
その時と同じように、経蔵の前で娘と一緒に休みながら、少し節子の話をしました。

初めての父娘旅行は、こうして最後は当時の雰囲気のなかで、終わりました。
しかし予定よりも2時間も早く全行程を終わってしまいました。
斑鳩も西の京も、せわしない世界に向かっているようです。
節子だったらなんと言うでしょうか。
勝手な懐古趣味かもしれませんが、私には昔とは違う世界になってしまったようで残念でした。

しかし娘に付き合ってもらってよかったです。
娘は京都を歩いてから帰るというので、私は1日早く帰宅しました。
帰ったら寒いのに驚きました。
奈良は初夏のようでしたのに。

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