■部分的つきあい・功利的なつきあい
前の記事でご紹介した小沢さんとフツーの市民の座談会の紹介を昨日、フェイスブックも流しました。
そうしたら、ある人から1時間半は長い、ダイジェストはないのか、内容の時間割をした目次はないのかと質問されました。
その人にはいささか失礼だとは思いましたが、そういう発想にこそ問題があると反応させてもらいました。
ダイジェストや一部の都合のいい情報だけを効率的に集めた結果が、昨今の社会を生み出していると私は思っています。
そうした小賢しい器用な生き方は捨てなければいけません。
そうした「部分的つきあい」が、自然との関係においても、人との関係においても、広がっています。
私は、ほとんどの人が「功利的なつきあい」をしてきます。
それを非難するつもりはありませんが、私には哀しい話です。
「部分的つきあい」や「功利的なつきあい」は、状況を超えた「付き合い」関係を生み出しません。
そこからは「支え合うつながり」は育ってはいきません。
しかし、人が生きる上で必要なのは、功利的なつながりや部分的なつながりではないでしょう。
困った時に支えてもらうためには、相手が困っている時には支えることも必要ですが、それ以上に大切なのは、困ろうと困るまいと、日常的なつながりを大切にしていることです。
さらにいえば、相手もことを気にしていることです。
自然との付き合いもそうでしょう。
今回の津波被害の多くは、自然とのつながりや付き合いをおろそかにしてきたことと無縁ではないように思います。
もしそうだとしたら、これからは自然とのつながりを基軸に置いた生き方を基本にしていくことが必要なような気がします。
原発事故も同じように、付き合い方が部分的、功利的だったことに一因があるような気がします。
世界は、考えるための要素によって違ってきます。
都合のよい要素を編集した情報は、判断を誤らせます。
コミュニケーションというのは曖昧な言葉なので、あまり使いたくはありませんが、共有された要素によって、コミュニケーションが引き起こす結果は大きく変わります。
25年以上前に、「非情報化革命論」という小論を書いたことがありますが、世界はますますヴァーチャルな、操作的な世界へと変質してきているように思います。
「絆」や「つながり」が流行語になっていますが、部分的でも功利的でもない、もっと生命的な自然のつながりを目指したいと思います。
「モモ」に出てくるような時間泥棒に用心しながら、心身を素直にすれば、それはそう難しいことではありません。
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